満足できる人生を生きるには3つのことに留意することです。
その三つとはゴールから目を話さないで生きること、他者と自分を比較しないで生きること、神の愛を体験しつつ生きることです。
一つ一つ具体的に実践方法を解説します。
1.ゴールから目を離さないで生きる
①目標をどこに置くかが真の問題
目標を一心に見つめて生きる人と、脇目を振りつつ時間をつぶしながら生きる人では、目標の達成度がちがってきます。
しかしあまりに目標を達成することばかり考えて、それ以外のものを切り捨ててしまう人生は必ず行き詰まります。
なぜなら人間はそのように出来ていないからです。(もっと正確に言うと、そのようには神に造られていないからです。)
この二律背反(にりつはいはん)の問題を解決する道は何かといえば、この世における目標とは別に、死んだ後に受ける神の審判にゴールを置くのです。
②救われた者には審判はコワくない
それは審判の向こう側にある神の国を待ち望む生き方です。
この世において設定するのは目標です。
そしてゴールを神の御前での審判に起きます。
ここで言うゴールとは、神に裁かれて地獄に落とされるという意味での審判ではありません。
ではどのような審判かというと、無代価で憐れみのゆえに救っていただいた私たちが、感謝のゆえに精一杯人々に救いを宣べ伝えたことを、神様に誉(ほ)めていただくことを指しています。
③宣教の原動力は聖霊のバプテスマを受けること
初代教会の信者たちは非常な喜びに溢れていましたが、すぐに宣教を開始するようなことをせず、神の命令を守り、聖霊のバプテスマが与えられるのを待ちました。
そしてついに異言を伴う聖霊のバプテスマに満たされてから、命がけで伝道に励みました。
私たちもまた聖書に従うべきではないでしょうか?
2.他と自分を比較しないで生きる
他者と自分を比較してはなりません。
なぜなら横(他者)を向いているときは、上(神)を向いていませんし、前(ゴール)も見ていないからです。
小さな子供が、かけっこをする時に、よくぶつかるので、それをいぶかった両親が子供と一緒に走って確かめたところ、子供は前を見ないで、横にいた猫を見ていたそうです。
これではぶつかるはずだと納得したご両親は、お子さんに「かけっこする時は、前を見て走るんだよ」と優しく教えました。
笑い話のようですが、案外私たちはこれと同じことをやっていないでしょうか?
3.神の愛を体験しつつ生きる
愛は人格的交わりを通してのみ受け取ることができます。
愛されていることをいくら教えられても、愛を体験することは出来ません。
あるカルト教会の牧師が真顔で「クリスチャンは遊ばなければなりません。」と言っているのを聞いて、ありのパパは失礼ながら「この人はどこかおかしいのではないか」と感じたのが、その教会がカルト化していることに気づくきっかけでした。
義務感で遊ぼうとするとき、実は本当には遊んでいません。
なぜなら遊びとは「~しなければならない」というところから解放された世界にあるからです。
同様に「愛さなければならない」と力んでみても仕方のないことです。
なぜなら愛は、自発性に基づくのでなければ愛とは言えないからです。
ではどのようにして愛を体験すれば良いのでしょうか。
①聖霊による交わり
聖霊のバプテスマを受けた時に同時に与えられた異言で祈る賜物を活用して神様に祈る時、聖霊なる神が言い難きうめきをもって私たちを執り成してくださいます。
神が私を心配してくださり、私の問題をご存じであり、心のすきまを神の愛で満たしてくださるのを知ることは何にも代え難いことです。
②癒しと奇蹟と経済的祝福
病気にならないことが祝福なのではありません。
病気にならなければ知ることの出来ない心の領域というものがあります。
人が本当に成長しようとするなら、これは避けて通れないのではないかと思うほどです。
だからと言って癒しがないと言っているのではありません。
神が御心の時にどんな病も癒してくださいます。
私たちは感謝しつつ、その時を待ち望みつつ、この世の生涯を歩めば良いのです。
またお金が必要な時に、お金が与えられることほど、神の愛を身に沁みて感じることはありません。
③人様との交わり
家族と共に生き、教会のメンバーと交わり、未信者の友人たちと楽しく過ごすことによって、私たちは霊的な力を得ます。
笑ったり、怒ったり、喜んだり、泣いたりして、交わりを心底楽しむ時、心のうちに命の水がわき出ます。
注意して、この命の水が涸れることのないようにしなければなりません。
◎神にお会いすることをゴールに設定し、神の愛を味わいつつ、他者と比較せず歩み通すなら、だれにでも満足できる人生を生きることが可能です。
平安と祝福を祈っています。
