1.神により頼むことと、信仰依存症との間には、どんなちがいがあるか?
①神に従った結果に責任を持つ
ある人々は「神様が責任を持ってくださる」と言います。
確かにその通りです。
しかしその結果は私たちが願ったようなものでないことが多々あります。
かえって人の目には失敗に映るようなこともあります。
神への真の依り頼みは、自分が願ったような結果でなくても、その結果を受け入れます。
しかし信仰依存症の場合は、受け入れることが出来ず、不平と不満が心の中から出てきます。
②真の依り頼みは自分がしなければならないことを弁(わきま)える
信仰依存症の場合は、自分は何もせず(熱心に祈りはしますが)、ただ神が働いてくださることを求めます。
偽預言者・三流の評論家のようです。
③神への依り頼みは日々気づきをもたらす
信仰依存症は日々妄想の度合いを深めます。
④神への依り頼みは戦略的発想・実際的信仰をもたらす
信仰依存症は被害妄想的・陰謀論的発想に陥ります。
⑤神への依り頼みは外部の批判にはオープンに応じ、内部の批判には謙遜な態度をとる
信仰依存症の場合は外部からの批判に対してはヒステリー的反応をし、内部からの批判には抑圧的態度を示します。
2.どうしたら信仰依存症にならないで、神への真の依り頼みとなることができるか?
①常に現実から目を背けない
信仰依存症のパターンは「こうあるべき」「こうなるべき」というものです。
周囲の現実を無理やりに自分の理解の範囲に押し込めます。
まるで型に入れて焼くケーキのようです(笑)。
しかし私たちを取り巻く現実はアメーバのように変幻自在に変わります。
この摩訶不思議と言わねばならないような現実をどのように理解すれば良いか途方に暮れます。
しかし理解するのが難しいと感じるときは、大体においてこちらの側の理解の枠組みが硬直化しているときです。
次のようなことが教会では良く起こります。
服装が乱れた若者が教会にやってくると、年寄りたちはそれを咎(とが)めます。
年寄りたちの言い分は「教会にやってくるには、それなりの服装というものがあるだろう」というものです。
しかしこれは順番が逆です。
本当は若者たちが教会にやってくるために、こちら側が変わる必要があるのです。
それをこちら側は少しも変わらず傲慢なままであるのに、それにもかかわらず若者たちが教会に来てくれたのだから感謝しなければならないのに、それを咎め立てするとは何ごとでしょうか。
理解の枠組みが硬直化すると、神の御前では罪であるような考え方を平気でするようになります。
お互い気を付けたいものです。
②定型的に物事を考えないように努める
定型的な考え方というのは、本質を捉えず表面だけを捉えて、浅はかな結論を出してしまうことです。
例えば伝統的な教会では「離婚してはならない」という聖書の教えを律法主義的に解釈します。
元々の聖書の教えは、離婚することによって不利な立場に追い込まれる婦人の権利を保護するためのものでした。
それがこの律法主義的な解釈によって、婦人に新しい重荷を与えてしまうことになりました。
だれも好き好んで離婚する人はいないのです。
仕方なく離婚に追い込まれるのです。
その切ない気持ちに寄り添うことなく、離婚をした人を一方的に裁いてはなりません。
神の裁きが行われるとき、呵責のない徹底した裁きを受けるのは、離婚した人でしょうか。
それとも離婚した人を裁いた人でしょうか。
③立場や意見の違う人と議論を戦わす
ありのパパは以前はキリスト教リベラル派の存在を認めていませんでした(そのことに気づいてさえいませんでした)。
それがこのブログを始めるようになって、リベラル派クリスチャンの方と意見を交わすようになって新しい視点が与えられました。
それでリベラル派キリスト教を受け入れることが出来るようになりました。
たしかに福音主義キリスト教だけでは、この社会においてキリストの証人としての任務を十分に果たすことが出来ないばかりか、自分たちが罪に陥っていることさえ気づかなかったと考えるようになりました。
「どうぞご勝手に」と言っている限り思考・理解の枠組みは硬直化したままです。
もちろん誹謗中傷・罵詈雑言は何の役にも経ちません。
そんなことをしたい者は刑務所の中で行えば良いのです。
相手を配慮しつつ、丁寧な言葉づかいで行われる議論だけが有益な結果をもたらします。
さて、私が、そしてあなたが持っておられる信仰は、神への真の依り頼みでしょうか?
それとも信仰依存症とでも呼ばなければならないようなものでしょうか?
神の御前で自らの信仰を省みたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。
