近頃、百歳以上のお年寄りの生存確認が取れないということで大騒ぎになっています。
この問題を考えます。
1.この問題の本質は何か?
①血縁・地縁社会から無縁社会に移行しつつある
かつて我が国の社会は非常に強力な血縁・地縁関係で結ばれた社会でした。
今でこそ「隣は何する人ぞ」という感じになっていますが、かつてはそうではありませんでした。
ほんの三十年位前は葬式などがあると近所の世話役が取り仕切っていました。
当時は葬式は自分の家でやるのか普通のことでしたが準備が大変でした。
そのような大変な準備を世話役が中心になって近所の人たちが手伝ってくれるのですから、これはこれで良い点を持っていると思います。
血縁関係は現在でも地方に行けば強力に残っています。
②国民の意識が都会化しつつある
ありのパパが子供の頃テレビで「東京では隣の人が何をやっているか知らない」などと言っているのを見て大変不思議に感じたのを覚えています。
しかし今ではありのパパ自身も(都会に住んでいるわけではないのに)隣の人が何をしている人か知りません。
このような状態では「お年寄りのことを気にかけよう」と政府が言ったところで効果がないのは明らかです。
2.親が子供の養育を放棄する事件が相次いでいる
養育放棄をネグレクトと呼びます。
このような問題が頻発する背景には三世代同居の世帯が少なくなってきたということがあると考えます。
昔ですとお母さんが子供の世話に疲れたときは同居するおばあちゃんに孫の面倒を見てもらうということが出来ました。
また近所のネットワークも今とは比較にならぬほど強力でしたので何とかしのぐことが出来たのです。
ところが現在では同居するおじいちゃん・おばあちゃんはおらず、近所の人は名前さえ知らないという状態です。
これでは助けを誰かに仰ぐことができませんから、お母さんが疲れたらそれでアウトということになってしまいます。
3.このような社会に対して教会は何をすべきか?
①日本社会の地縁・血縁がキリスト教の宣教の障壁になっていた
キリスト教会が熱心に伝道して人々を救いに導いたあとに壁にぶつかることが多くありました。
それは新しく救われた人々が地縁・血縁に阻まれて教会に来なくなってしまうことです。
ありのパパもこのようなことを何回も見てきました。
それでありのパパは内心では「日本社会にある強力な地縁・血縁関係が崩壊しない限り、キリスト教の宣教が進むことはないのではないか?」と感じるときもありました。
それが今ではかつては鉄壁の強さを誇った日本社会における地縁・血縁関係が崩壊しつつあるのです。
これはキリスト教の宣教にとっては千載一遇のチャンスではないでしょうか?
②教会が社会に提供できるもの
教会が日本社会に対して温かな交わりを提供できるなら宣教は進展すると考えます。
では教会が提供する交わりとはどんな交わりでしょうか?
それは「互いに愛し合う」交わりです。
互いに愛し合うとは自分自身を愛するように隣人を愛することです。
愛とはありのままの自分自身と隣人を受け入れることです。
ではどんなものが愛ではないでしょうか?
それは教え込みと脅迫とマインドコントロールを使って人権を侵害することです。
そんなこと言われなくても分かっているって?
いいえ、そうではありません。
愛することと憎むことはある意味では紙一重のことなのです。
ですから私たちはよくよく気を付けて自分がやっていることが本当に神の御心に適っているかどうかを自問自答しなければなりません。
③お年寄りの世話を家族に代わって公的施設や教会が行う
お年寄りの世話をするのは家族のはずだったのですが、その家族を今ではどこを探しても見つけ出すことが出来なくなってしまいました。
家族関係がとっくの昔に崩壊しているにもかかわらず「お年寄りはご家族が面倒を見ているはず」と思い込んでいた政府や地方公共団体の唐変木(とうへんぼく)さに呆れます。
これからの時代は高齢者を家族任せではなく、公的機関が直接に把握する体制に変えていかなければなりません。
またこの仕事を公的機関だけに任せきることは出来ません。
キリスト教会は本当の愛をもってお年寄りや子育てに疲れている母親の元に行くことが求められています。
◎平安と祝福を祈っています。
