もし皆さんがペンテコステ派のクリスチャンであって、他教派の方から異言についてご質問をいただいたらどのようにお答えになるでしょうか?
1.どうして異言が全てのクリスチャン、教会に必要だと主張するのか。異言を求めない教会は必要じゃないのか?
それは三つの理由があるからです。
①聖書がそう言っているから
聖霊のバプテスマが「使徒の働き」に登場する全ての場面で異言が語られているか、異言が語られていると強く推測することが出来ます。
パウロ書簡にもパウロ自身が異言を語ったことが書かれており、初代教会のクリスチャンたちが当然のように異言で祈る賜物を活用していたのがが明らかだからです。
②心が異言で祈る賜物を活用した神との人格的交わりを渇くように求めるから
異言で祈る賜物を活用して神との人格的交わりを始めるまでは靴を履いて足の裏を掻いているようなもどかしさが付きまといます。
ところが異言で祈り始めるようになると「我が心、定まれり」というような平安を体験するようになります。
③人々の証
異言で祈る賜物を活用して何十年も祈っている多くの人々を知っていますが、その人々は人格的に成熟しているのを感じます。
突発的な怒りから解放されており、物事を双方から見ることの出来る視野の広さを備えており、自分が間違っているのを気づいたら即座に謝罪することのできる謙遜さを持っているのを感じます。
これらの人々は異言で祈り始めた人々の励ましとなる存在です。
○「異言を求めない教会は必要ないのか?」という質問は二元的な考え方から出てくる発想です。
「必要じゃない」とは誰が必要じゃないのでしょうか。
神様でしょうか?それとも人でしょうか?それともあなた自身にとってでしょうか?
2.異言が常に聖霊から来るという確証はどこにあるのか。霊の働きには悪霊の働きもある。悪霊に影響されることはないのか?
①異言を求めるのではい。聖霊のバプテスマを求める
このご質問は大変重要な質問です。
なぜなら今日のペンテコステ運動が聖霊のバプテスマそのものを求めず、異言だけを求めて異言を語ったことをもって聖霊のバプテスマを受けたことにするという誤りを犯しているからです。
もちろん異言を語ったことで聖霊のバプテスマを受けている場合もあるでしょう。
しかしそうでない場合もあり得ます。
②異言が聖霊のバプテスマに添えて与えられる理由
この質問者が仰るように異言が聖霊から来るのでない場合があります。
世界中を見渡すと世界のどの宗教の中にも異言が存在するのを知ることが出来ます。
このような聖霊以外の霊から異言が来るのを防ぐため、神はクリスチャンに異言の賜物を聖霊のバプテスマと同時にお与えになるのだと考えることが出来ます。
なぜなら聖霊のバプテスマとは聖霊に満たされることであり、聖霊に満たされているとき聖霊以外の霊は私たちの中に存在することが出来ません。
このような言わば無菌室状態で神から異言で祈る賜物が与えられるとき、その異言は正真正銘の神からの賜物であるということが出来ます。
③神から来たのではない異言を語っている場合はどうなるか?
その場合は異言で祈っても心に平安はないし、何より聖霊に浸されているという静謐感がありません。
また人格の成熟も見ることができません。
3.それが御霊の働きでないなら危険ではないか?その危険を冒してでも異言を求めることは神の意志か?
①聖書のやり方に従うなら安全
質問者が仰る通り、危険極まりないものになります。
しかし既に申し上げたように異言を求めるのではなく、聖霊のバプテスマを求めるなら危険から免れることが出来ます。
なにより明確にしないといけないことは聖書のどこにも「異言を求めよ」とは書いてないことです。
聖書は「聖霊のバプテスマを求めよ」とはっきりと言っているのです。
私たちは聖書信仰者ですから、書かれた聖書の御言葉に忠実でなければなりません。
②どんな困難があっても異言で祈る賜物を求める価値がある
ここで申し上げたいことは危険を冒すことが良いということではありません。
ペンテコステ運動の初期には多くの脱線が発生しました。
この運動の先輩たちはこれらの困難に立ち向かいました。
現在、ペンテコステ運動が始まってから百年が経ちました。
その間に運動は成熟し、神学は整えられました。
穏健なペンテコステ神学に基づいて信仰生活を送るなら、多くの危険から未然に守られることが可能です。
ですから「安心して異言で祈る賜物を求めてください」と申し上げることが出来ます。
ここまでは神学的な視点から異言で祈る賜物の問題を考えました。
次に実際的な面と心の面からアプローチします。
4.自分の主張を繰り広げるだけでは駄目
ありのパパがペンテコステ派の神学生として伝統的福音派教会でインターンをやっていた時のことです。
その教会の奉仕者がありのパパに「ペンテコステ派の人と異言を伴う聖霊のバプテスマの話をしていると、なんか訳(わけ)がわかんなくなっちゃう」と言いました。
その時ありのパパは「訳がわからなくなったのは誰?」と聴きたかったのですが、教界内の平和のために止めておきました。
このような会話をする際に気をつけておくべきことは、相手の理解力はどの程度かを知っておくことです。
相手の理解力の程度をわきまえず、自分の言いたいことだけを言うなら、それは「気狂いに刃物」と言わなければなりません。
5.質問された時の対処の仕方
①信仰生活に力のなさを感じ、聖霊のご介入を求めている場合
この場合はカウンセリング的アプローチをすることが大切です。
どこに問題を感じているのかを明確に知り、その問題に対する答えとしての「異言を伴う聖霊のバプテスマ」を適用することが大切です。
教理という石を投げてはいけません。
イエスがなさったように私たちもすべきです。
イエスはサマリアの女に福音を三段論法的に「神・罪・救い」の順序で説き明かすことをされませんでした。
私たちは「あの場面で自分がイエス様だったらどのように答えただろうか?」と考えることをしなければなりません。
そうしたら人々に対してどのように答えたら良いかが分かるようになります。
②魂の渇きがなく、神学的興味で戦いを挑んでいる場合
そのような場合ありのパパなら退却します。
なぜなら人生は短く、そのようなどうでも良いことに時間を費やしている暇はないからです。
6.救いの恵みと聖霊のバプテスマの関係
そもそも聖霊のバプテスマは救われた者としての生活を全うするために、神がクリチスャンにお与えくださったものです。
その救いとは自力で勝ち取ったのではなく、神の一方的な憐れみによって恵みとして与えられたものです。
これは何を現しているかと言いますと「自分は無力な存在である」ということを神の御前でも、人の前でも、自分自身に対しても認めるということです。
ですから救われた者としての生活を全うするとは自分自身の弱さに徹して生きるということです。
救われた後も私たちはどうしようもなく傲慢な者であり、心の中に自力で救いに到達したいという思いが残っています。
これが人間の現実であるのです。
ですからいくら救われたと言ってもうっかりしていると救われる前の自分(即ち我力で生きる自分)が表に出て来てしまうことになります。
そうならないために神は聖霊に満たされて生きていくという道を備えてくださったのです。
7.ペンテコステ派のクリスチャンの深層心理
救われる前提には自分の無力を認めるということがあったのを私たちは忘れてしまいがちです。
それで聖霊のバプテスマを受けた後は完全な信仰生涯を送ることができると勘違いしている人が案外多くおります。
この完全への執着は救われる以前の私たちが自力によって救いに到達しようとしたのと同じ律法主義から出ています。
現代キリスト教は教会成長運動や繁栄の神学の影響を強く受けていますので、これらもまた聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンの耳元に「我力で頑張っちゃえば良いんだよ」と囁(ささや)きます。
このような自分の無力を認めたことが救いの前提であったことを忘れてしまったようなクリスチャンが他のクリスチャンに「聖霊のバプテスマを受けなければ、あなたはクリスチャンとして不完全だ」と言うなら、それを言われた人は即座に自分を救いの信仰から引き離すサタン的な惑わしとして受け止めるでしょう。
ですから異言を伴う聖霊のバプテスマについて質問をされたときには救われた者として弱さに徹するために神が与えてくださった助けとして語ると良いでしょう。
真理を求める心は誰にもありますが若い人々にはそれが格別に与えられております。
年を取ると争いを好まないようになりますが、若い時分は聖書の真理を語って妥協することがありません。
これが祝福であることを気づくのは、それを失った後です。
『あなた方の若いときに、あなた方の造り主を覚えよ』と聖書にあります。
造り主を覚えよとは個人的に神を知ることだけでなく神学を学ぶことでもあります。
どうぞ、相手を思いやる気持ちをもって、神学的議論を戦わせていただきたいと願っています。
◎平安と祝福を祈っています。
