福音派教会では今の時代には聖書が私たちに与えられているから預言は必要ないと言われてきました。
果してその通りでしょうか?
この記事では聖書が現代でも預言はなくなっていないと教えていることを明らかにします。
1.預言の構造はどうなっているか?
旧約聖書にはエリヤやエリシャなどの預言者が行った預言が記されています。
それらを読むと神の御心は明確に一つですが、その御心を状況に応じて相当自由に適用しているのを見ることができます。
一般的な理解ですと、祈っていると突然みこころが示され、その示された御心を一字一句そのまま人々に伝えるのが預言であると思いがちです。
しかし聖書を見るとそうではないことがわかります。
コアになる部分だけを示され、あとは目前の状況に応じて預言者がその御心を適用しています。
これは現代において私たちが「説教」と呼ぶものと変わるところがありません。
2.福音派教会が預言を嫌う理由
福音派教会は教会における預言の位置づけを誤っているように思えます。
また福音派教会は聖霊の主権的な働きを嫌う傾向があるようにも見受けられます。
それで聖書の教えの中から自分たちが危険と感じる異言や預言をはじめから無いものとして扱います。
しかし聖書を丹念に学んでいくと、預言が単なる神からの託宣(たくせん:神が人にのりうつり、また夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。[広辞苑第四版])ではないのを明確に理解することが出来ます。
聖書が教えている預言とは神の御心を伝え、教え、さとすことです。
これは今日における説教と本質において同一のものです。
以上のことから預言には聖書から行われる説教という要素が含まれていることが明らかになりました。
ですから預言がこの時代において廃(すた)れたとするなら教会から説教が失われることにもなります。
当然のことながら説教がなくなったという教会は一つもありませんから、預言は廃れていないということです。
3.聖霊派教会に見られる「預言者運動」
まず第一に問題となるのは、彼ら自称預言者が行っている預言が本当に神からのものかどうかということです。
本当の預言であるなら、その預言が外れることはあり得ません。
聖書には預言が外れた預言者は死ななければならないと書いてあります。
この聖書箇所について「預言者運動」の当事者たちは「旧約の時代と現代における預言は違う」と言っています。
これは詭弁です。
なぜなら新約聖書にも預言者が出てきますが、その預言者たちの預言はみな当たっているからです。
たとえば「大飢饉が起きる」「大迫害が起きる」などです。
これは言い伝えですが、西暦70年にエルサレムがローマ軍によって陥落しますが、預言者たちの預言によってエルサレム教会のクリスチャンたちは事前に集団移住を行い、難を逃れたとのことです。
それに比べると預言者運動の人たちがする預言は当たっている預言を探す方が難しいぐらいです。
批判を避けるためか元々抽象的な表現がされている「預言」が多いのですが、それでもなお「これは当たっている」と言えるものはないと感じました。
結論として「預言者運動」は聖書的ではないし、その預言が神から来ているということも言えません。
4.健全な預言には三つの要素がある
a.未来に起きることをあらかじめ神に示されて民に伝える。
b.神の御心に従うように勧める。
c.聖書全体の教えとつながっている。
預言の健全な聖書的な位置づけを学び、預言の働きを行っていきたいものです。
◎平安と祝福を祈っています。
