(2019/11/07記事更新)聖書には「女は子育てすることによって救われる」と書かれてあります。果たして正しい解釈はどのようなものでしょうか?この記事では聖書を正しく解釈するコツを明らかにします。
1.聖書本来の意味を知ることの大切さ
新約聖書のテモテへの手紙2章15節にはこのように書かれています。
「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます」(新改訳聖書)
ヤフー知恵袋で「子を産むことによって救われるとあるが、キリスト教ではイエスを信じる信仰以外に救われる道があるのか?」というトンチンカンな質問がされていました。
それに対しての答えもまた的外れなものでした。
しかしこの箇所を文字通り読んでしまうと、そのような疑問が出てくるのは当然のことです。
新改訳聖書は原文を直訳するという翻訳原則を採用しています。
聖書は聖書によって解釈するというのが大原則ですが、聖書の一部を聖書以外の思想によって解釈してしまうと異端の教えが生まれることになります。
(これの典型的な例がセカンドチャンスという第二の救いを説く教えです)
聖書を意訳(説明訳とも言います)しているリビングバイブルでは、さすがにその辺に気を使って訳出しています。
「女が慎み深く、信仰と愛ときよさを持って生活するなら、そのたましいは救われます」(リビングバイブル3版)
しかしこの訳文では(ありのパパが読んでも)「じゃぁ、男はどうなんだよ。慎み深さや信仰・愛・聖さは男性にこそ必要なものではないか」とごく自然に思えてしまいます。
第一、この訳文では慎み深さなどの人格的徳を持つことが救いの条件になってしまっています。
これは聖書全体を通して明らかな教えである信仰義認の教えに反していますから、適切な訳文ということは出来ません。
原意に忠実に訳するという翻訳原則に基づいて訳された現代訳聖書は、どのような訳文になっているでしょうか?
「子供を産むという最も平凡な家庭生活の中に、女性の生きがいを見い出すことができる。そして救いは完成する」(現代訳聖書)
大分ましになってきました。
日本人にとって救いというと瞬間的なもの・体験的なものを連想しがちです。
しかし真の救いはそうではなく、イエスを信じることによって義と認めらる(義認)ことから始まって潔められつづける道を歩み(聖化)、ついに肉体が滅んで天に移されるとき永遠の衣を着せられます(栄化)。
この全体を指して救いと呼ぶのです。
現代に生きるクリスチャンたちは義認だけを救いであると受け止め、聖化や栄化を救いと対立的に受け止めてしまう傾向があります。
救いは一過性のものではなく、完成させるものであるのです。
2.「子育てによって救いが全うされる」の正しい解釈
①アダルトチルドレンの婦人の子育ての苦労
アダルトチルドレンのご婦人がご自身の子育てについて悩んでおられるお話を聞かせていただくことがあります。
このようなときにありのパパが感じることは、機能不全家族の親たちとアダルトチルドレンの親には明確な違いがあるということです。
それは機能不全家族の親は虐待や養育放棄に対して罪悪感をもっていません。
あるのは言い訳と自己正当化だけです。
それに対してアダルトチルドレンの親御さんには、怒らないでおこうと思うのに怒ってしまうことに対する申し訳なさ、セルフイメージを引き下げないように育てようと思っているにもかかわらず、引き下げるような言葉を吐いてしまうことに対する自己嫌悪があります。
そのような嘆き・慟哭(どうこく)にも似たお話をお伺いしていて感じるのは「確かに聖書が言うように『婦人は子育てをすることによって救いが全うされる』というのは本当だ」ということです。
なぜなら男性の方からそのような悩みを聞くことはないからです。
男性が鈍感なのか女性が敏感なのかは分かりません。
しかし神が女性を「産む性・育てる性」としてお造りになられているのは確かなようです。
②子育てによって救いが全うされるとは?
婦人の方々が子育てのことで悩んでおられる姿を拝見すると「もし他のことで苦労したとして、これほど深く自らの人間理解に切り込んでいくことが出来るだろうか?」と思わざるを得ません。
真の聖化とは人格が変わることです。
人格の改変とは自らの無力を認め、神に自分の人生を手放し、神の御心を知ることと、御心を行う力だけを求める人生を生きることです。
これは並大抵のことではありません。
誰だって楽をしたいし手を抜きたいのです。
しかし子供を持つ婦人は子供のために命を捨てることを厭(いと)いません。
子どもがちゃんと育つために自分を変えていく覚悟があります。
これが聖書が言う「婦人は子育てをすることによって救いが完成される」ということの真意であると、ありのパパは理解しています。
3.聖書を時代の価値観に迎合させてはならない
このような論を述べているときに気を付けなければならないことがあります。
それは一見聖書の解説をしているように見えて、実は自分(またはその時代)の価値観を述べているのに過ぎない場合があるということです。
聖書の各記者は聖書が書かれた時代の価値観と異なっている内容を聖書に残しました。
奴隷制度が一般的であった時代にパウロは奴隷制度を否定することも肯定することもせず、ただ「奴隷は奴隷の身分のままで留まっていなさい。しかし自由人になることが出来るならためらわず自由人になりなさい」と教えました。
このことから時代の価値観に対する聖書の考え方を知ることが出来ます。
それは教会が時代を改革していくことは教会の主な任務ではない。
しかし教会がその時代の価値観を肯定することは決してないということです。
(キリスト教徒が社会運動家や政治家として社会改革に勤(いそ)しむのと、この問題は別です)
子育てで苦労している婦人の方々に申し上げます。
あなたのそのご苦労はあなたの救いを完成させる道です。
この道を励まし合いながら共に歩んでいこうではありませんか!
◎平安と祝福を祈っています。
