分離主義カルトの人々によって「砂糖まぶしの福音」ということが最近良く言われています。
実はこのような言葉は昔から言われてきたことでもあります。
そこで彼らがどのような意味で「砂糖まぶしの福音」という言葉を使っているのかを考えます。
1.分離主義カルトが言う砂糖まぶしの福音の意味
①真の自我の磔殺とは?
彼らが「砂糖まぶしの福音」という言葉を使う時ほぼ共通しているのは「自我の磔殺を言わない福音」という意味で使っているようです。
ただし彼らが言う自我の磔殺と聖書が言っている自我の磔殺とは全く異なるものです。
彼らが自我の磔殺というとき、それは自分から見て自分のうちにあってほしくないものを十字架に付けてしまうことを指しています。
聖書が言う自我の磔殺とは自力で救いに到達したいという自分の中にある思いを十字架に付けてしまうことを意味しています。
一見、両者は似通ったことを主張しているように見えますが実はそうではありません。
②救いの前提にあるのは無力を認めること
救われる前に知っておかなければならないのは律法を守ることによって救いに到達する道は実現不可能な道であるということです。
これを無力を認めると言います。
分離主義カルトの人々の書いた文章を読むと万能感の匂いがプンプンします。
万能感とは「やれば出来る」ということです。
残念ながら彼らには「無力を認める」ということが全然分かっていないと言わざるを得ません。
③霊で始めたことを肉で完成しようとしてはならない
そもそも十字架の救いは自力では救いに到達できないと認めた人が受け取るものです。
そうだとしたら、なぜ救われた後に自分のうちにあってほしくないものを十字架に付けてしまおうとするのでしょうか?
それが出来ないと認めることが無力を認めるということであるにもかかわらずです。
無代価で救っていただいたにもかかわらず救われた後にいけしゃあしゃあと自分で自分を救う努力をするということはイエス・キリストを十字架から引き下ろすのに等しいことです。
2.根本主義教会が言う「砂糖まぶしの福音」とは?
根本主義教会と言われる方面からの批判があります。
この人々は「全ての問題は御言葉を堅く信じることによって解決する」と堅く信じて疑わない人々です。
これが誰にとっても真実であれば問題はないのですが、現実はそうではありません。
それで信徒の抱える問題が解決されるように、牧師はカウンセリングを学び、説教したいところをぐっと堪(こら)えて信徒の話を聴きます。
このようなことも根本主義の人々にとっては気に入らないようです。
「ありのままを受け入れる必要なんかない。しっかり悔い改めて、御言葉を信じる信仰に立てば良い」と言います。
このような人々にとっては、カウンセリングとか、ありのままとかは、まさしく「砂糖まぶしの福音」に映るに違いありません。
3.問題の核心は何か?
①無力を認めていない
救いの前提である「無力を認める」ということをしていないことです。
分離主義カルトの人々が真顔で「これもあれもみんな十字架に付けなければならない」と絶叫しているのを見ると背筋が寒くなります。
分離主義カルトの人々に限りませんが、クリスチャンで万能感に満たされている人が余りに多いのに呆れます。
もう一度、立ち止まって自分自身の無力を認めることから信仰生活を始めるべきではないでしょうか。
②律法を守ることによって救われようとしている
救われたにもかかわらず、依然として自分で自分を救う努力を止めていないことです。
無力を認めることをせずに信仰生活を始めてしまうので自分で自分を完成しようとするサタンの惑わしに簡単にやられてしまいます。
分離主義カルトの人々が教える自我の磔殺の教えはその典型的なものです。
③互いに愛し合うことをおろそかにしている
「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」というイエスのご命令が実行できていないことです。
分離主義カルトにおいては愛し合うのではなく、裁き合うのが定番であるようです。
その理由はもう既に救われているにもかかわらず、自分で自分を完成させようなどと余計なことに目が行っているため、肝心要のイエスのご命令を実行している暇がないのです。
本物の福音を指して「砂糖まぶしの福音」などと良く言うものだと思います。
本物の福音を信じる私たちクリスチャンは砂糖(愛)で自分自身も隣人をも溶かしてしまおうではありませんか!
◎平安と祝福を祈っています。
