異言なしの聖霊のバプテスマ、聖霊のバプテスマなしの異言はあるか?

異言と聖霊のパプテスマについてのご質問をいただきました。
その質問とは「異言を意識的に語るように指導された。しかも限りなくまがい物チックな方法であった。このことについて、ありのパパさんはどのように考えるか?」というものでした。

この質問について皆さんとご一緒に考えてまいります。

1.異言は聖霊のパプテスマに伴う

①聖霊のバプテスマよりも、異言を語ることを優先する間違い

「ハレルヤ・ハレルヤ・ハレルヤと言い続けなさい。そうすると口がもつれますから、もつれたままハレルヤと言い続けなさい」と指導し、そのハレルヤがもつれた言葉が口から出たことをもって異言とし、しかもその異言を語ったことをもって聖霊のバプテスマを受けたことにするのです。

②「異言は聖霊のパプテスマを受けたことの印」というのがペンテコステ運動の根本的な主張

上記の指導の仕方は、誰でも「おかしい」と感じると思います。

質問者も一度は異言(まがい)を語ったものの、語るのをやめてしまったとのことでした。
実はありのパパにも同じ経験があります。
カトリック教会で行われたカリスマ集会で、カトリックの信者さんに「受けようと思うなら、今すぐに受けることが出来ます」と言われたのが一度目。

二度目は国内で二番目に大きい(アメリカでは一番大きい)ペンテコステ派の教会に行ったときでした。

③二つの間違い

一つ目は聖霊のパプテスマより異言そのものを求めているふしがあることです。
二つ目は即時性を前提としているということです。

聖書の「使徒の働き」を見ますと、教会は聖霊のバプテスマが与えられるまで五旬節の日まで祈りつつ待ち望んだと記されています。
しかし一部のペンテコステ教会は求めるなら今すぐにでも与えられると考えているようです。

これは初代教会と著しくちがう点です。

④現代はインスタントがもてはやされる時代

救われたつもりで信仰をスタートし、ろれつが回らなくなったハレルヤをもって聖霊充満とします。
昔は自らの救いに確信がもてないときは「確信が与えられるまで祈りなさい」と指導されました。

ありのパパは、信仰上の困難にぶつかったときに、実は救われていないからこんなことになったのではないかと考え、前向きに歩むことが出来なくなるということがないように、救いの経験を疑うことが出来ないぐらい明確にさせておこうと祈り求めました。

神は祈りと願いに答えてくださり、ありのパパは今まで一度たりとも自分が救われていることを疑ったことはありません。
「救われたつもり」「聖霊充満のつもり」ではいつまで経っても本物の信仰生活を送ることは出来ません。

2.様々なケースを検証する

真実なクリスチャンであると思われる人々の中にも「自ら口を開き、異言を語りだした」と主張する人々がおられます。
これをどのように理解すればよいでしょうか?

①異言を語っているつもりに過ぎないのか?

この方々の証を伺いますと、確かに聖霊のバプテスマを受けたとわかる変化が、その方の生活と生涯の中に認められるのです。
たとえば異言を語り始めてから、証したり、伝道するのが怖くなくなったと言うのです。
これは明確に聖書の証言と一致しております。

逆に言いますと、いくら異言を語っていても「いまだに伝道するのが億劫で」と言うようなら、その真実性は疑わしいということになります。

②自ら口を開き、ろれつが回らなくなり、異言を語りだしたという人は多い

この方々の語る異言が本物である場合、人為的に指導されて異言を語ることはありえないとすることは、事実を認めない一方的な主張と言うことになります。

③この方法で本物の異言を語り始めることはありえる

しかし『異言と聖霊のバプテスマ』で申し上げたとおり、神様は異言が神様から来たとわかるように、また神以外のところからの異言を受け取ってしまう危険からクリスチャンを守るために、聖霊のバプテスマを受けて御霊で一杯になっている一番安全なときに異言をお与えになるのです。

昨日に引き続いて異言の問題を考えますが、今日は異言を伴わない聖霊のバプテスマを考えてみたいと思います。

3.聖霊のバプテスマには必ず異言が伴うか?

尊敬するペンテコステ教会の宣教師経験者であり、国内開拓伝道所の牧師であり、神学者でもある方は、こう申されております。
即ち、異言を伴わない聖霊のバプテスマはありえないから、いくら聖霊のバプテスマを受けたと言っても、その人が異言を語っていないなら、それは聖霊のバプテスマとは言えず、別物の体験であると言うのです。
大変論理的な帰結なのですが、多少論理の上滑りと言いますか、三段論法的な弱点が含まれているようにも思えます。

いくつかの可能性を考えてみたいと思います。

①抑圧された状況

異言が否定されており、異言を語ると教会を追い出されるような状況で、聖霊のバプテスマを受けた場合、無意識に異言を語ることを抑圧するということがないでしょうか?
その場合、聖霊のバプテスマと異言の両方をいただいているが、外側に異言が出てこないという可能性があります。

②ありのパパは入信後4年目に異言を伴わない聖霊のバプテスマの体験をした

その時、確かに確信が与えられ、救いの経験と同じく、自分が聖霊のバプテスマを受けたことを疑ったことは一度もありません。
そうであるのに、異言を語っていないから、それは聖霊のバプテスマではなく、別の体験であると言われても納得することは出来ません。
静かではありますが強い確信であるので、人が「そうではない、違う」と言っても、心にさざなみが生じません。
どのように理解すればいいでしょうか。
神様は聖霊のバプテスマに異言を必ず伴わせてくださるが、人間の心理的抑圧などの理由により、異言を語りださない場合があり得ると、ありのパパは個人的には考えています。
そのような場合に、異言を語りだすために言語機能をコントロールすることをやめ、ろれつが回らなくなるにまかせる方法が有効であると考えます。

③聖霊のバプテスマを受けいていないのに(御霊に満たされていないのに)、異言のみを語りだすことがあり得るか?

あり得るとする場合、異言を語りだすときに同時に聖霊のバプテスマを受けたと考えることが出来るでしょうか?
真正の異言を語りだした場合、同時に聖霊のバプテスマを受けたと考えられると思います。
しかしいつまでたっても、真正の異言であることに確信がもてない場合は、聖霊のバプテスマを受けていないこともありえると思います。
この場合、異言を語ったとしても、期待する結果を生みださず、いつまで経っても自立できず、伝道も出来ないままだと思います。
このようなことを防ぐためにも、聖霊のバプテスマを求めることを優先し、異言はそれに伴うものであることを強調するのが良いと思います。
そうしない理由は、ペンテコステ教会の指導者が教会成長の悪しき影響を受けて、異言を語った信者の数を自分の営業成績のように捉える傾向があるからではないかと推測します。

まさに目に見えるものにではなく、目に見えないものにこそ、信仰をおく必要があります。

まとめ
①異言を語ることができるように人為的に導くことの是非。
②人為的に導かれた異言には、聖霊のバプテスマが伴うか。
③異言の伴わない聖霊のバプテスマは、どのような場合でもあり得ないか。

以上の三点について考えてまいりましたが、異なった視点で考えるべきことを一つのこととして考える場合、論理的に混乱する恐れがあります。
しかし現実は、この三つのことが一度に起きており、これをどのように理解すればよいかが急務だと思われます。
十分に論理的に、聖書的に、神学的に整理できたとは言い難いですので、皆さんとご一緒に考えていくことができれば幸いです。

聖霊のバプテスマと異言の関係において、メーンは聖霊のバプテスマであり、サブが異言です。

メーンを差し置いて、サブを求めることを優先するのは、信仰運動として不健全であると思います。
あくまで聖霊のバプテスマを求めることを指導するべきであり、聖霊のバプテスマが与えられるときに同時に異言も与えられると教えるのが、ペンテコステ運動の本来の有様ではないでしょうか。

最後になりますが、聖書のどこにも異言を自ら語りだすことを支持する箇所はありませんし、命じている箇所ももちろんありません。
しかしだからと言って、そのように指導するペンテコステ運動が真実でないとか、全く人為的であると言うことも出来ないと思います。
なぜならそのやり方によって、間違いなく異言を語りだした人がおり、神との豊かな交わりに入れられたと信じるに足る人々がおられるのですから。

◎平安と祝福を祈っています。

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