(2020/03/11記事更新)「キリスト教がいいものとは思うが、しかしそれが自分にどう関わってくるのかわからない」という方はおられませんか?
この記事は聖書的キリスト教には人々の問題を解決する力があることを解説しています。
1.初代教会が持っていたメッセージの直截(ちょくさい)性
『簡単でありましょうと複雑でありましょうと、私が神に祈っておりますことは、王だけでなく、今日私の話を聞いておられる皆さんが私のようになっていただくことです。この鎖につながれることは別にして』[使徒26:29]
パウロのメッセージは明確で直截的です。
正直であろうとする人なら、だれもがイエスを信じざるを得ないと感じるほど強力であったのを、この箇所から見ることが出来ます。
当時の支配階級の人々がパウロの説教を聴いて悲鳴を上げているのです。
現代に生きるキリスト者はどうでしょうか。
私たちのメッセージを聞いて、支配階級の人々がたまらずに悲鳴を上げるというようなことがあるでしょうか?
ありのパパは聞いたことがありません。
この理由は支配階級の人々の心に問題があるというよりは、メッセージする私たちの側に問題があると言えるのではないでしょうか?
配慮に配慮を重ね、結局何を言っているのか分からないようなメッセージになっているように感じます。
2.現代キリスト教のメッセージはどうか?
①リベラル派キリスト教の説教
この傾向(何を言っているのか分からない説教)はリベラル派キリスト教に格別に感じます。
それは同じキリスト者(福音主義)が聴いても何を言っているのか分からないほどです。
その根本的な理由は聖書を誤りのない霊感された書物として認めないところにあります。
彼らの説教は一見、聖書の話に終始しているように見えます。
そうであるなら「結構なことだ」となるはずですが、そうなりません。
そうならないどころか欲求不満に陥ります。
なぜなら多くの人々は「私はそんな聖書の話などに興味はない。私が聞きたいのは、今悩んでいるこの私の助けになることだ。問題解決のためのヒントが知りたいのだ」と感じているからです。
聖書を誤りのない霊感された書物であると信じない限り、いくら聖書を解説したところで、その説教を聞く人々の心に「聖書こそ、問題解決の鍵である」という確信が生じることはないのです。
②福音主義キリスト教の説教
では福音派・ペンテコステ派教会はどうでしょうか?
リベラル派に比べればまだましと言うところですが、それでもまだまだという感じが拭(ぬぐ)えません。
なぜなら正しい聖書釈義がされているのは良いのですが、その聖書釈義をどのように生活に適用すればよいのかというところにまで届いていないからです。
それで説教を聞く人々は内心「問題が解決可能なのは分かった。ではどうすれば目の前の問題は解決するのか?それを具体的に教えて欲しい」と思っているのです。
ただそんなことを口にすると「不信仰!」と言われるのを恐れて口をつぐんでいます。
それで教会に通い始めて何年も経っているにもも拘らず、相変わらず問題は山積みのままなのです。
3.人々の必要とキリスト教のメッセージ
人々が求めているのは、日々の生活の中で起きる問題をどのように解決すれば良いのかということです。
そしてキリスト教が提供できるのは聖書の教えと問題解決の方法をセットで提供することです。
二千年前のキリスト教すなわち初代教会にあって現代教会にないものの一つが問題解決と御言葉(みことば→聖書の言葉)をセットにして人々に届ける能力です。
いったん失った能力をどうすれば回復することが出来るでしょうか?
それは苦労して学び取るしかありません。
悩んでいる人の悩みに耳を傾け、悲しむ人の嘆きに辛抱強く付き合うことが大切です。
悩んでいる人を見て「いつまで悩んでいるのか?そんなことではいけない」と叱咤激励(しったげきれい)するようではいけません。
悲しんでいる人に「主にしっかり聞いていただきなさい」とかなんとか言って自分の責任から逃げてしまう人に申し上げたい。
「お前が聴いてやれよ!」(笑)
4.初代教会と現代教会
パウロはイエスに直接お会いしたことがありませんし、当然のことながらイエスから直接に薫陶(くんとう)を受けたわけでもありません。
しかしそれでもパウロの信仰にはキリスト教の十全な形が宿っていました。
ですから次のように言うことが可能です。
もしパウロに可能であったなら私たちにも可能です。
キリスト教の十全さをまず私たちが生きようではありませんか。
そしてこの十全なキリスト教を人々に宣べ伝えようではありませんか。
私たちにはそのような祝福を受ける資格があり、同時にそのようなキリスト教を宣べ伝えなければならない責務があります。
◎回復と平安と祝福を祈っています。
