真に人格的成長を願うなら、我力を捨てて、キリストと共に歩むこと!

『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』[マタイ27:46]
ありのパパがキリスト教に入信して、何が分からなかったかと言って、この言葉ほど分からないものはありませんでした。
この記事ではこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

1.信仰は一人芝居では成立しない

キリスト教と仏教の一番の違いは、崇敬の対象となるものとの間に人格的関係があるかないかというところにあります。
同じカウンセラー仲間で一般的な仏教徒であった人がありのパパにこのように言ったことがありました。
「ありのパパさんは、『人を受容するには、その前に自分自身が神に受容してもらった経験がなければならない』というけれど、その神様は何だって良いのよ。ただ人間の側で自分を受容してくれる対象を作り出せばよいのよ」

ありのパパはこの言葉を聞いて、これでは人様を本当には受容できないだろうと思ったことでした。
しかしこのような考えは日本人の多くが持っている考えでもあります。

そしてこれが「受容すべき」と思っても本当には受容できない真の理由なのです。
人間が作った作り物の神に、自分の心の中で受容されたと空想しても、そんなものに何の力もありません。
このようなものを一人芝居といいます。

2.本当に見捨てられた人からは恨み・つらみが出てくる

キリストの十字架上の言葉を聞いたとき、ありのパパがなぜ違和感を感じたのか後になって分かりました。

本当に見捨てられた人からは恨み・つらみが出てきます。
しかしキリストからそのような言葉は一切出てきませんでした。
ある人は「そんなこと当たり前ではないか。御子なる神が愚痴をこぼすはずがないではないか」と言うでしょう。

しかし福音書の記事を見ると、イエスの余りにも人間臭い言葉にたくさん出会うことが出来ます。
たとえばゲッセマネの園で血の汗を流して祈っているときでさえ、一時間に一回はペテロを初めとした弟子のところに行って彼らが寝ているのを起こしています。
なんとユーモアにあふれた御方でしょうか。

「なぜキリストが泣いたり叫んだりしなかったのか?」ということですが、それはやはりキリストが自らの使命を明確に捉えておられ、微塵(みじん)も迷いがなかったからであると思います。

3.キリストの十字架が私たちが救われるために必要な理由

全てを支配なさる全能の神が「赦す」と一言言えば、全人類の救いは完成します。
しかし神はそうなさいませんでした。
その代わりに独り子(ひとりご)のイエスを十字架に付けて、全人類の罪の身代わりとされました。
なぜでしょうか?

神のご性質には二つの面があり、一つは義なる神というご性質と、もう一つは愛なる神というご性質です。
この義と愛という二つの相反する要求を共に満たすためには、神ご自身である御子イエス・キリストが十字架に掛かるほかはなかったのです。

万人救済主義を唱える人々は、神の二つの側面をバランスをもって捉えることに失敗しています。
十字架の贖罪の故に全人類の救いが完成しているのは事実です。
しかしその救いを受取るのは信仰によらなければなりません。
そうでなければ神の二つの御性質による要求を満たすことが出来なくなってしまいます。

4.十字架の御業は一人芝居ではない

キリストが十字架の上で「なぜお見捨てになったのですか」と言われた真意は、父なる神との間の人格的関係が奪われ、全人類の身代わりとして父なる神に裁かれたことを示しています。

理解力に限界のある人間である限り、この言葉を本当に理解することは不可能です。
しかし例え話によって少しは理解することが可能です。
友人の身代わりに出頭したのが自分の息子だったとします。
その息子に対して、罪人に接するようにしなければ息子が身代わりであるのがばれてしまいます。
それで父親は息子に接するようにではなく、罪を犯した人に接するように接します。
息子の方もお芝居ではなく、本当の罪人として振る舞います。
なぜならそのようにしなければ、身代わりにならないからです。
この延長線上に「なぜお見捨てになったのですか」という言葉が出てきます。

5.真の人格的成長はプログラムの中にはなく、キリストとともに歩む中にある

私たちにとっても苦しみを通ることによって人格的に成長するというのは一人芝居ではありません。
弟子訓練とか、霊性の訓練とか呼ばれるものは「何々をしたら成長することが出来る」と私たちに約束します。

しかしそのようなものは演技に過ぎません。
演技による抑圧が限界に達すると、グループ内でいじめが始まり、精神的疾患を抱える者が続出するようになります。
これが弟子訓練プログラムを採用する教会に精神疾患を病む人や自殺者が続出する真の理由です。

弟子としての本当の訓練は、弟子訓練セミナーの中にあるのではなく、主と共に歩む人生の只中(ただなか)にこそあります。

私たちには分からないことが多くあります。
しかしただ一つ、次のことを知っています。
それはキリストが私の罪を背負って十字架に掛かって死んでくださり、私を罪から救ってくださったということです。

◎平安と祝福を祈っています。

メール登録をお願いします!

新しい記事を見逃したくない方はメール登録をどうぞ!新記事をメールでお知らせします。

タイトルとURLをコピーしました