信じたら一丁あがりとは聖書は言っていません。
かえって信仰が破船しないように注意しなさいと言っています。
そこでまず信仰の破船とは何を意味しているのかを明らかにし、次に信仰が破船してしまわないためには何に気をつければよいのかを見ていきます。
1.信仰の破船とは何を意味しているのか?
「信仰の破船」という言葉は、パウロが愛弟子のテモテに宛てて書いた手紙の中にある言葉です。(Ⅰテモテ1:18,19)
「信仰の破船」の反対語は「信仰の戦いを立派に戦い抜く」です。
信仰の戦いを立派に戦い抜くために必要な条件は、個人的に語られた「預言の言葉」に励まされ、信仰と良心を保つことです。
「預言の言葉」が一体何を意味するのか、聖書は明確には語っていません。
この明確には語られていないことを、機械的・直線的に捉えているのが預言者運動と呼ばれるものです。
この人たちは知り合いでもない人のところに行って「主はこう言われる」と預言をぶっ放します。
その内容は当たり障りのない他愛のない場合が多いです。
しかし中には職業選択や結婚相手についての無責任で断定的なものがあると言われます。
もし彼らが正しいことをやっているなら、彼らから不正な行いは出てこないはずですが、この運動からはカルト化の問題や性的な不品行・虐待の問題が後を絶たないようです。
2.個人的に語られた神の言葉
メソジスト教会やホーリネス教会では「御霊の証(みたまのあかし)」という教えがあります。
個人的に語られた預言の言葉とは、この御霊の証に相当するものではないかと、ありのパパは考えています。
この理解ですと、クリスチャンなら誰でもこのような経験があると言うことができます。
右に行くべきか左に行くべきか悩みに悩んで、神に導きを請うたとき一瞬雷鳴のように神の御声が私たちの内心に轟(とどろ)きわたり、それによって決心が固まり心は揺るがされることのない平安に満たされるという経験です。
この預言の言葉を生涯にわたって保持するようにと、聖書は言っています。
ある時ペンテコステ派のクリスチャンとお話していて、この話題になったことがありました。
この方は熱心に教会の活動に参加されている方なのですが、こう仰るのです。
「以前、神の語りかけがガァ~ンと心に来たことがあったけれど、今はそのこと忘れちゃった。えへっ」
ありのパパは内心「えへっじゃないよ。えへっじゃ」と感じつつ、顔を引きつらせているのみでした(笑)。
個人的に語られた神の言葉を忘れてはなりません。
「本当に神からの声なら忘れるはずはない。忘れるのは、それが神から来ていないからだ」という人もいます。
しかしそうではないのです。
聖書は個人的に語られた預言の言葉を軽視したりせず、却って預言の言葉に励まされて生涯を生き抜くようにと言っているのです。
3.信仰と良心を保つ
「良心を保つ」の反対語は「平気で嘘をつく」です。
当たり前のことですが、どんな場合でも嘘をついてはならないのです。
時と場合によっては嘘も方便というのは、神の御前では通用しない理屈です。
4.伝道者にも良心を偽る危険がある
初代教会の時代にも良心を偽らなければならない状況がありました。
信仰の面ではエルサレム教会が陥りつつあった律法主義への対応の問題がありました。
ペテロもバルナバもこの問題で良心を偽り、そのためにパウロから厳しい叱責を受けました。
当時は現代のような教団制度がなかったため、自給の伝道を行う伝道者がこの当時は多かったようです。
それで彼らは常に経済的な心配をしなければなりませんでした。
なかには正しい商取引を行わず不正な利益を得ていた伝道者もいたのではないかと推測します。
5.現代でも形を変えて同じような問題がある
次から次へと聖書から見てどうかと思われる事柄が起きてきます。
例えばセカンドチャンス論、教会内で行われる人権侵害の問題、献金にかかわる不正の問題などがそれに当たります。
それらに対して人間的思惑に縛られて、はっきりとした態度表明をしないなら、神から叱責を受けることになります。
6.良心に逆らった行いをする理由
私たちが良心に逆らった歩みをする真の理由は神を畏れていないからです。
ありのパパ自身のことを考えてみても、神への畏れがないときに自分の行動がコントロール不能に陥るのを知っています。
『主を恐れることは、悪を憎むことである』(箴言8:13)
パウロは神を畏(おそ)れることを学ばせるために、彼らを教会から除名しました。
現代に生きる私たちも、自分自身が神を畏れることを学ぶとともに、教会戒規の実行においてもそのようにする必要があります。
◎平安と祝福を祈っています。
