キリスト教を信じることと、キリストを信じるのは違うことか?

信仰的に純粋な人たちが良く口にすることに「キリスト教を信じるのと、キリストを信じるのとは違うこと」というのがあります。
現代は「霊性の時代」と言われています。
多くの人たちがシンプルで霊的な信仰をもつために既存のキリスト教会から離れています。
そこでキリスト教を信じることと、キリストを信じることはちがうことなのかを考えます。

1.「キリストを信じる」という一点ばかりが強調されるとき何が起きるか?

①熱狂主義に陥りやすくなる(主観主義)

熱狂主義という罪は最も大きな罪ですが、中々人には見えにくい罪です。
なぜなら熱狂主義は人の目には敬虔に見えるからです。
教会がキリスト教教理を軽視するとき、そのすきまから熱狂主義が入って来ます。

②世に打ち勝つことが出来なくなる(世俗主義)

書かれた御言葉に替わって、人の書いた書物が重視されたり、またフィーリングによって物事が決せられたりするようになります。
物分かりの良さが、神に従うことに取って代わられます。

③宣教の使命の放棄(静寂主義)

ワーシップソングを何時間も歌い、自分たちは霊的であると満足し、そうでない人々や教会を裁き、それで満足して家路につきます。

彼らはいつイエスの命令である宣教の使命を果たすつもりなのでしょうか?
いや初めからそんな気持ちは全然ないのかもしれません。

2.分離主義の問題

①日本の教会からエクソダスしなければならないと唱えている人々

この人々は自分たちもまた主の教会の一部であるとの自覚が致命的に欠けている人々です。
イエスが十字架で二元の壁を打ち崩してくださったのに、もう一度二元の壁を復活させようとするのがエクソダスです。

彼らが実際にやっていることと言えば他の教会から信徒を勧誘することです。
神が命じる宣教の使命の遂行よりは、他の教会を非難・攻撃することに彼らが重きを置いているのは明白です。
しかし事実は同じ福音を信じる教会から教会への移動に過ぎないわけですから、これは茶番劇でしかありません。

②聖書にではなく、人間に軸足をおいている

彼らが書いたものを読んでみると聖書はちっとも出てきません。
代わりに出てくるのはウォッチマン・ニーを初めとする人間が書いた書物です。

彼らには様々な問題がありますが(カルト的であること、深刻な人権侵害が発生していること、聖書によらない主張をしていること)、最も大きな問題は彼らが聖書そのものに立っていないということです。

いつでも誰か他の人が書いたものをありがたがって「彼はこう言っている。あの人はこう言っている」というところに止まって満足しています。

③心の傷を隠さず、正直になろう

なぜ他の教会を非難するかと言うと、それは彼らのセルフイメージが低いからです。
根拠のないエリート意識を持っているのは自尊心が満たされていないからです。

彼らがここから脱出するために、神は二つのものを用意しておられます。
一つは、人間が書いた書物を捨て、聖書そのものに依り頼むことです。
二つは、偽りの強がりと傲慢さを捨てて、他の教会の人々に謙遜な気持ちで交わりの右の手を差し出すことです。
そうしたら必ず彼らも間違った教えから抜け出すことが出来ます。

キリスト教とキリストを信じることは一つのことです。
これを決して分離してはなりません。

◎平安と祝福を祈っています。

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