キリストはどのように『石をパンに変えよ』という誘惑に勝利したか?

聖書で有名な話にイエスが悪魔の試みを受けた話があります。
どのようにしたら誘惑に勝つことができるかを考えます。

1.「石をパンに変えよ」という誘惑

①神の言葉によって生きるとはどういうことか?

「人は神の言葉によるのでなければ真に生きることはできない」

今日多くの援助が貧しい国々になされています。
しかし彼らの貧しさは一向に改善されているようには見えません。
かえって援助漬けになった人々は援助依存症とも言うべき病気にかかっているようにも見えます。

なぜでしょうか?
それは人は人格的に真に自立するまでは貧しさから解放されることはないのです。
「神の口から出る言葉」とは聖書の御言葉を指しています。
聖書の御言葉によって生きるとは神と人格的関係をもちながら生きていくということです。

②なぜそれをしてはならないのか?

イエスはご自身の宣教活動の中で何回も食料を人々に与える奇蹟を行われました。
ですから問題の核心は石をパンに変えるところにあるのでないことは明らかです。

「石をパンに変えてみよ」という誘惑の狙いは人々の関心を神の言葉から逸(そ)らすことにあります。
現代はそのような誘惑に完全に屈している時代ではないでしょうか?
私たちは確信を持って「人は神の言葉によって生きる」と証したいものです。
まずその前に自分自身が神の言葉によって生かされていなければなりませんが。

2.「飛び下りてみよ」という誘惑

①挑発に弱いのはプライドの根拠を間違った所に置いているから

「お前もクリスチャンだったらこれぐらいやってみろよ!」と言われたことがはないでしょうか?
「飛び下りてみよ」という誘惑の本質は挑発ということです。
なぜ私たちが挑発に弱いかというとプライドがあるからです。

プライドは本来は良いものですが、プライドの根拠を自分のなした行為に置いていると私たちは常に不安に苛まれることになります。
なぜなら私たちの業績や行為というものは不完全なものであり、決してプライドの根拠になるようなものではないからです。
プライドの根拠を神が私を愛しておられるというところ以外に置いてはなりません。
そうしたら私たちは何があっても動かされることがありません。

②人間に支配されてはならない

戦前・戦中、我が国の教会は異教徒である神道原理主義政府の言いなりになりました。
それは恐れに支配されて言いなりになったのでした。
戦後「あのような状況では仕方なかった」という言い訳がなされました。

しかし神の御前では仕方があろうと無かろうと、自発的であろうが不本意であろうが、罪を犯したことには何の代わりもないのです。
言い訳をやめて真摯な心になって悔い改めをなすことこそ神の御前で受け入れられることです。
言い訳とは即ち後悔です。
後悔は私たちを永遠の滅びに連れて行きます。
悔い改めは私たちをして永遠の救いに連れて行きます。

3.「悪魔を礼拝せよ」という誘惑

①悪魔の得意技は小さな妥協をさせること

「悪魔礼拝をしなさい」と言われれば、大体のクリスチャンは拒否すると思います。
しかし悪魔の誘惑はそんなに単純ではありません。
「祝福と繁栄をあなたをあげる。その代わり少しは私(この世)の言うことも聞いてくれなくちゃ」と耳元でささやかれてもなお拒否できるクリスチャンはどれぐらいいるでしょうか?

福音の中に祝福が含まれることを信じる信仰は御利益信仰であると非難されます。
しかしこれは間違っています。

問題は福音のうちに祝福を見いだすことにあるのではなく、祝福を受け取る過程でサタンの誘惑にやられてしまうことです。

②不正な手段で得た祝福は後に必ず呪いとなる

「神の国と神の義をまず第一に求め続けるなら、その他のものはそれに加えて与えられます」

祝福を得るために不正な手段を黙認してはなりません。
そのようにして得た祝福は時が来ると必ず呪いとなり、それを持っている人を滅ぼすことになります。

③教会成長運動のこと

教会成長運動もその過程で教会員の人権を侵害しました。
大きな教会になるという祝福を得るためにサタンが耳元でささやく「そのためには多少のことには目をつぶらなくちゃ」という誘惑に乗ってしまったのではないでしょうか?

しかし聖書の神は人権を侵害された者たちの神です。
神は彼らの叫びに耳を傾けられ、不法を行った者を裁かれます。
まことに「裁きは教会から始まる」という御言葉が今成就しようとしています。

イエスが示してくださった道を歩むことによって、私たちは誘惑に負けないで人生を生きることが可能です。

◎平安と祝福を祈っています。

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