什一(十分の一)献金のこと。神が真に求めておられることは何か?

十分の一献金

ペンテコステ派のクリスチャンであるなら、どなたでも什一(じゅういち)献金のことを知っておられるでしょう。
福音派出身のありのパパは、什一献金を知りませんでした。

知ったのは「朝の9時」というカリスマ運動の信仰に立つ著者が書かれた書物を通してでした。
それまでは自分の信仰が聖書的であると思っていたのですが、この本によってカリスマ運動に触れてこんなにも聖書通りのキリスト教というものが存在することに興奮を覚えました。

その本の中には異言を伴う聖霊のバプテスマなどの霊的事項だけでなく、クリスチャンの実際生活についても明確に妥協なく書かれていました。
その中にあったのが什一献金です。
什一献金とは収入の十分の一を神様にお献げするというものです。

福音派やリベラル派の一部から什一献金について聖書に忠実でない主張がされています。
今日はこの問題を考えます。

        

1.什一献金は廃止されたのか?

什一献金が初めて聖書に登場するのは、モーセを通して律法が与えられるよりも以前です。(創世記14:20)
ですから十字架の御業により律法が成就したあとでも、そのことには関係なく什一献金は有効のままであると考えるのが妥当です。

○このようなわけで、律法は成就したから、什一献金も廃止されたというのは間違いです。

        

2.新約聖書に什一献金についての記述がないから、什一献金はされていなかったか?

ユダヤ人信徒が什一献金を守っていたことは、状況から見て明らかです。
ユダヤ人信徒は什一献金を超えて献金をしていたようです。
使徒の働きには全財産を献げた人がいたことが記されております。
(注: エルサレム教会ではとくに初期の時代、什一献金をユダヤ教の会堂に、それ以上のものをキリスト教会に献げていた可能性もあります。)

異邦人の教会はどうでしょうか?
三項目をのぞいて律法は守らなくても良いと言われたから、什一献金を行っていなかったでしょうか?
いいえ、マケドニヤ教会の例を見ると、彼らは什一以上を献げているように見えます。(Ⅱコリント08:02)

〇これらのことから明らかであるのは、什一献金が守られていたということです。

        

3.神がお求めになるのは、献金に勝(まさ)って、悔いし砕かれた心で神に従うこと

「あなたがたは自分の服を裂くのではなく、心を砕いて、主である神に帰りなさい。」(ヨエル書2:13)

上記の御言葉によれば、悔いし砕かれた心を伴わない、形だけの献金は神に受け入れられません。
ユダヤ人たちは什一献金を守っていましたが、神はそれを忌み嫌われるものとされました。
心と行動が伴わない献金はたとえ什一であっても、神に受け入れられないことは明らかです。

結論:
「十分の一の献げものもいい加減にしてはいけないが、正義と神様に対する愛は最も大切なものだ。」(ルカ11:42)
これがイエス様のお言葉です。これ以上、どんな言葉が必要でしょうか?
まさか律法の成就とともにイエスの言葉まで廃止されたというのではないでしょうね。
新約聖書に什一献金への言及がないから、自分も信徒に什一を言わないという牧師は信徒から神の祝福を奪っていると言うことができます。

◎平安と祝福を祈っています。

タイトルとURLをコピーしました