恨みの本当の姿を見ることができれば私たちは恨みから解放される!

ACや依存症者ほど恨みから解放されたいと願っているが、解放されるためにどうしたらいいかが分からず途方に暮れている人はいないのではないでしょうか?
この記事では恨みの出所(でどころ)を明らかにし、その上でそこから解放されるための方法を詳しく解説していきます。

1.恨みは蜃気楼(しんきろう)。恨んだ本当の原因は自分の短所を使ったから!

「恨みの本当の姿を見ることができれば私たちは恨みから解放されるだろう」(回復の「ステップ」65頁8行目)

「恨みの本当の姿」とは恨みとは実は相手が何かをしたからではなく、自分がしたことによって自分自身(本能)が傷つき、感情が暴走したということです。
これが分かると心が軽くなります。

①依存症の原因は不快感情(不快感情と嗜癖の関係)

依存症者から時々聞く言葉が「私は嗜癖を使わなければ普通の人々と同じように生きていける」です。
この言葉は半分は当たっていますが、もう半分は見当違いです。

当たっているところは性格上の欠点を使い、その結果として本能が傷つき、感情が暴走するのはみんな同じだという点です。

人によって嗜癖を使い続けて依存症に罹患するまでの量や時間的経過は異なりす。
だからある人は怒りやすくても、生涯【単なる癇癪持ち】にとどまりますが、ある人は【単なる癇癪持ち】が人生のどこかで【怒り依存症者】になります。
これが脳の報酬系に依存症回路が完成したときです。

依存症回路が完成するまで延々と怒りの爆発を繰り返したのは他でもない自分なのですから、言い訳は出来ません。
でもなぜか被害者意識を持ち、「俺って、私って、かわいそう」と自己憐憫に陥ります。
そういうときは「ちっともかわいそうじゃねぇ」と自分に言ってあげることです。
なぜなら被害者意識を嗜癖として使っている限り、回復は始まらないからです。

間違った認識とは明確に依存症になる以前から私たちは周囲の人々とは明らかに異なった存在だったということです。
その異なる部分とは性格上の欠点からくる行動パターンを使う比率が他の人々とに比べて顕著だったということです。

恐れが動機の身勝手行動、不正直、「私は何も言わないけど相手は私の本心を分かって当然であり、それに基づいた行動をすべきである」という何とも利己的極まりない考え・振る舞いなどからくる行動パターンを私たちは使ってきました。

だから例え嗜癖を使わなかったとしても、性格上の欠点を頻繁に使うという面で決して心が健康な人々と同じではなかったのです。

心が健康な人と同じように生きていきたいなら、嗜癖を使わないことと性格上の欠点からくる行動パターンを使わないことの二つをセットにして対策をとる必要があります。

ところで、ありのパパが依存症になって良かったと思うことがあります。それは依存症にならなければ決して性格上の欠点からくる行動パターンを使わないでおこうとは思わなかっただろうからです。

理由は人のせいにするほうが楽だし、全力で新しい生き方を実践するのは骨が折れるからです。

「今日一日」だけ新しい行動パターンを全力で実践しようと思えるのは、そうしないとスリップする日が自分に必ず訪れるのを知っているからです。
依存症でない人にはこのような強い動機付けは与えられません。
そのため困難にぶつかると「何で自分だけこんな思いをしなければならないのか?」と思いがちです。

(コラム)不快感情以外に依存症の原因はないのか?

様々な人が依存症の原因を色々と指摘します。
ある人は生育歴が原因であるしたり、「依存症は周りの人々を信頼できない病」であるとします。
ここで大切なことは分析や処方箋(しょほうせん)がたとえ100あったとしても、本当に有効な解決策はそんなにないということです。

12ステッププログラムは依存症の原因を不快感情から逃れるために嗜癖を使うことであるとします。
不快感情とは恨み・罪悪感・恐れ・後悔の四つです。

ありのパパ個人のことを言えば不快感情が原因であるとは到底思えませんでした。
でも他に有効な解決策を見つけられなかったので、その提示されたものを「信じてみる」という態度でした。
しかし試してみると、それは確かに効果のあるものでした。
この記事を書いている時点で、効果があると確かに実感した日から10年が経とうとしていますが、ますます「不快感情から逃れるために嗜癖を使う」との主張に確信を深めています。

②なぜ本能が傷つくと感情が暴走するのか?(不快感情と本能の関係)

ある人々は不快感情が依存症の原因であると教えられて、「それでは不快感情を溜めなければいい」と考えます。
これは間違いではありませんが、的(まと)を外(はず)しています。

不快感情は嗜癖に走る直接的な原因ですが、依存症の真の原因ではありません。
真の原因は性格上の欠点からくる行動パターンが自分の本能を傷つけたことが真の原因です。

ではなぜ本能が傷つくと感情が暴走するのでしょうか?
それは感情が暴走することによって本能が傷ついたことを私たちに知らせるためです。
多くの人々が暴走しがちな感情をやっかないなものと捉えますが、これは依然として自分自身(本能)を大切にしていない表れにほかなりません。

③なぜ他者ではなく自分の行動で自分自身が傷つくのか?(本能と性格上の欠点からくる行動パターンの関係)

実は他者の行動で自分自身(本能)が傷つくことはありません。
傷つくどころか「おかわいそうに」と本心から感じるほどです。

ではなぜ私たちが他者の振る舞いによって傷つけられたと感じるのでしょうか?

それは心のどこかでは自分が原因だと薄々勘づいているのですが、それを認めてしまうと全責任が自分に覆い被さってしまうし、他者のせいにしておけば堂々と「自分は被害者である」と言うことが出来るからです。
そして原因が自分だと認めたところで「ではどうしたらよいのか?」という解決策を持ち合わせていないので、仕方なく気づいていない振りをするわけです。

以上を勘案すると、要するに他人のせいにしておけば自分の問題から目を背けることが出来るし、他者に責任転嫁できるので、私たちは無自覚のうちにそうしているということです。

たとえば上司に対して恨みの感情が暴走したとします。
本人に理由を聴くと「上司の配慮のなさ」をあげます。
その方に「上司が適切に判断できるようにあなたの事情を説明しましたか?」とお伺いすると、「いいえ、何も話していません」とお答えになります。

もう皆さんおわかりのように、この方が上司を恨んだのは上司に対して恨み・辛(つら)みを募らせておけば、自分が上司に対して配慮が欠如していたことに目を向けなくてもすむからです。

これに気づくのは至難の業です。
ありのパパはステップ4・5の棚卸し作業とステップ10の日々の棚卸しを通してしか、この気づきは与えられないと思っています。
この気づきこそが『霊的目覚め』の本質的部分です。

2.ステップ5の棚卸しで恨みの感情が一度になくならない理由

一度限りの棚卸しによって恨みの感情が全部はなくならない理由は霊的目覚めによって【行動の仕方】は変わっても【考え方】と【感じ方】は徐々にしか変わっていかないからです。

それでステップ10の日々の棚卸しがとても重要な意味を持ちます。
感情面での問題を嗜癖として使う人々にとって心が軽いことはとても大切なことです。

①恨みには顕在化しているものと、否認によって潜在化しているものの二つがある

一般的にACは棚卸し表に記入する数が少ないです。
他の依存症者が何十枚も書いているのと比べると対照的です。
考えられる理由は二つあり、一つは仮面をかぶって生きてきたので目に見える人間関係のトラブルが少ないということです。
その代わり、内面は恨み骨髄(こつずい)です(笑)。

もう一つの理由は「私は善人である」というセルフイメージを持っているので恨みの感情を認めることができないのです。

こういうわけでACが棚卸しをやっても棚卸し表に書ける数はごくわずかです。
だからこそ引き続きステップ10の日々の棚卸しをやっていく必要があります。
なぜなら自分自身というもう一人の自分が「ここまでなら表に出しても大丈夫かな?」という感じで、少しずつ表層意識に恨みの記憶を浮かび上がらせてくるからです。

強迫的な傾向を持つ人は「どうせやるなら徹底してやろう!」と考えがちです。
もちろんいい加減にやっても効果は期待できませんが、だからと言って出てこないものを無理矢理に出そうとしても徒労に終わります。

そして上記で説明したように出てこないのには出てこないなりの理由があるのですから、「そうか、今は出てこないのだな」といったんは納得することです。

その後で日々の棚卸しを続けていれば「出てくる、出てくる。まだあるんかい!」と感じるほど出てくるようになります。
そのときには必ず不快感情の特定から入り、傷ついた本能の特定、使った性格上の欠点の特定と進みます。

決してあったことをなかったことにしないことです。
またしばしば見受けられますが、「今も恨みがあるから新しい生き方・新しい行動パターンを使うことが出来ない」と言い訳に使ってはなりません。

②人格の構成部分のうち霊的目覚めによって即座に変わるのは行動の仕方だけ

人格は考え方・感じ方・行動の仕方の三つによってなっています。
はじめ「おぎゃ~」と生まれてきたときは人格は真っ白であり、考え方も感じ方も行動の仕方も存在せず、ただ生物としての原初の欲求があるだけです。

すなわちお腹がすけば泣き、排泄をしておしめが気持ち悪くなると泣くといったようにです。
しかしそのうちに学習をして、「泣けば私の希望を叶えてくれるんだ」という考え方を身に付けていきます。

このようにして子供時代は【行動の仕方】を繰り返すことによって徐々に【考え方と感じ方】ができあがっていきます。
それが大人になると今度は【考え方と感じ方】から【行動の仕方】が導き出されるようになります。

霊的目覚めによって起きることは【行動の仕方】が【考え方と感じ方】から切り離されて、もう一度人格の育てなおしが可能になることです。

これはもちろん神だけが行うことが出来るものです。
これが12ステップを学ぶだけでは極めて不十分であり、どうしても霊的目覚めという経験をする必要がある理由です。

霊的に目覚めた後に自分の中の考え方や感じ方が余り変わっていないのに気づいて失望を感じることがあります。

しかし上記の説明のように霊的目覚めによって即座に変わるのは【行動の仕方】だけであり、行動の仕方を忍耐強く繰り返すことによってしか【考え方と感じ方】は変わっていかないということを肝に銘じることです。

さて、考え方と感じ方が変わるのにどのくらいの時間が必要かという問いに、皆さんならどのようにお答えになられますか?

ありのパパは正直言って「どうでもいい」と思っています。
なぜなら私の責任範囲は【行動の仕方】だけだからです。
もちろん、いい加減に行動パターンを使っていてはいつまで経っても代わり映えしないままですが、だからといって責任を持つ必要のないことまで心配するのは[自分自身への病的なコントロール欲求]だと思うからです。

3.断固として自分だけを問題にすることが回復に超重要である理由

心が軽い状態を保つ上で大切なことは「相手を問題にせず、自分のことだけを問題にする」に徹することです。
そうしない限りは恨みから解放されるのは難しいでしょう。
相手を問題にせず自分だけを問題にする心の態度こそが、生涯を平安をもって生きるためのほとんど唯一つの鍵です。

①相手を問題にしてしまう本当の理由は【性格上の欠点】と【病的なコントロール欲求】

実社会でトラブルを起こした依存症者が自助グループにやってきて同じような人間関係のトラブルを共同体内で起こすなどは良くある話です。

これは性格上の欠点の【利己的考え・振る舞い】と、もう一つは【病的なコントロール】を嗜癖として使っているからです。

前者の利己的考えとは「他者は私の思ったとおりに動いて当然である。何なら私が何も言わなくても私の願いを忖度して動くべきである」という考え方です。

この地上に私たちの願いを言わなくても分かってくれる人は一人もいませんし、何より「私が他者のために生きているわけではないように、他の人たちだってみな自分自身のために生きているのであり、私のために生きているわけではない」のですから、自分の希望がそのまま通ると考えるほうがおかしいのです。

この当たり前のことがいつまで経っても分からないままでいると、自助グループの中で段々と「俺様・私様」になっていくというわけです。

後者の「病的なコントロール欲求を嗜癖として使う」問題ですが、依存症者は物質依存や行為依存を使うことが出来ないと、知らず知らずのうちに「病的な人間関係」を嗜癖として使うことが明らかにされています。

では明確な物質・行為依存をもっていないACや共依存症者はどうかというと、自分の問題が見えていないと同じことを実社会でも自助グループの中でも繰り返します。
そのくせ心の中では「何で私の人生、うまく行かないんだろう」と嘆いているのです。
これは全部ありのパパのうちに起きていたことを正直に書いています。

②他者は私を傷つけることが出来ない。傷つけているのはいつだってこの私

棚卸しをして気づくことは自分の本能が傷つくのはいつだって恐れが動機の身勝手行動か、不正直な対応を自分がしたときだけということです。

他者の無礼な言動によってこちらが傷ついた場合を例にすると、その場において即座に自分の本音を相手に返せていれば、恨むどころかそんなことがあったことさえ覚えていないものです。
それを人の目を気にしたり、色々な言い訳を自分にして、その場で我慢すると後から恨みが出て来ます。

これの理由は「人は誰でも自分を尊重すべきである」という考えが傷つき、「あの人があんなに無礼なのは私をバカにしているからに違いない」と思い込むからです。
このような考えは共存本能の自尊心を傷つけます。

この段階では「相手が悪いに決まっている」という思い込みに凝り固まっていますが、棚卸表の第四列の「自分の側のあやまちの正確な本質」の[不正直な対応]や[恐れが動機の身勝手行動]に自分の対応を当てはめると見えてくることがあります。

それは「もし自分がその場で即座に自分の本音を相手に伝えていれば恨んでいただろうか?」ということです。

そうです。私たちが相手を恨むのは相手の行ったことが原因ではなく、相手の行動に対して自分の側の不正直な対応や身勝手行動があったときだけという真実に気づきます。
まさに「真実は私たちを自由にする」のです。

③「手放してあとは神にお任せ」できれば、心の平安は保たれる

なかには「人々は私の思ったとおりに行動すべきであり、相手がそうしなかったので私は傷ついた。そういうわけで私は被害者である」という考えをどうしても手放そうとしない人もいます。

理由は二つあります。一つは利己的であるということです。
利己的の別名は幼児性です。
文字通りの子供なら「『いやいや』してれば親は私のいうことを聴いてくれる」と思っていても何の不都合もありません。
かえって子供らしく感じられ、親からは微笑みが漏れます。

しかしこれを大人になってからやると自分にも周りの人々にも傷を与えます。
なぜなら世の中は構ってもらいたい人ばかりであり、誰も構ってあげる余裕のある人はいないからです。

対処策はいつも自分に向かって「私が自分自身のために生きていて、他者のために生きているわけではないように、他の人たちだってみなその人たち自身のために生きているのであり、私のために生きているわけではない」と言い聞かすことです。

もう一つの理由は被害者意識を嗜癖として使っているからです。
アルコール依存症者がアルコールを嗜癖として使うようにACは被害者意識を嗜癖として使います。
自分が傷ついた原因が他者の振る舞いではなく、自分の振る舞いにあると認めてしまえば、被害者意識を嗜癖として使うことが出来なくなってしまいます。

しかしアルコールだろうが、ギャンブルだろうが、被害者意識だろうが、嗜癖として使っていることに何の違いもありません。
嗜癖を使う人は人生を必ず棒に振ることになります。
だから人生のどころかで「あぁそうか。私は被害者意識を嗜癖として使っていたんだ」と気づき、そのことに対して無力を認めることです。

そして神の力を願いつつ12ステッププログラムに取り組むなら、癒やしがその人のうちに起きます。
ただし、完全に手放すことは人間にはできません。

ですから「握っている」と気づくごとに神の元に帰っていき、そこにて「自分の無力を認め、しかし神になら可能である」と信じます。

このような営みを続ける限り、私たちは『ビッグブックの12の約束』の4番目の約束である「心の落ち着きという言葉が分かるようになり、やがて平和を知る」が自分の中に実現しているのを知るようになります。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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