ACは被害者意識が強いとの自覚はあっても、嗜癖として使っているとの気づきがありません。
この記事はACは被害者意識を嗜癖として使う依存症者であると明らかにし、回復の方法を解説しています。
1.現状分析
①被害者意識を持っている人の人間関係の特徴
被害者意識を嗜癖として使っている人の対人関係の特徴は二つあります。
それは相手に何をされても我慢するか、あるいは的はずれな過剰反応をするかという両極端の反応になる場合が多いということです。
この両極端の反応が人間関係を破壊する最大の原因になります。
②ACの被害者意識の出処(でどころ)
子供時代に使った被害者意識を始めるとする病的な人間関係は生き延びる術として仕方のないものであり、かえってサバイバーとして誇れる面もありました。
しかし大人になってからも無自覚に子供時代の術を使い続け、いつの間にか病的な人間関係を嗜癖として使う依存症者になってしまったのは自分の責任です。
その意味で、被害者意識を嗜癖として使うことを親のせいにしてはなりません。
子供時代に親に傷つけられたのは紛れもない事実です。
しかし後々の人生を「犠牲者の視点」で生きることとは別のことです。
この両者を区別するリトマス試験紙は前者は「そういうこともあったなぁ」で終わり、後者は「よくも傷つけてくれたなぁ〜」という恨みを持つことです。
被害者であったという過去の事実と、被害者意識を現在持っているというのは全く違うことです。
被害者であったという事実は私たちの人生に良い影響を与えることはあっても悪い影響を及ぼすことはありません。
しかしいま現在も被害者意識をもっているなら、それは私たちの人生に壊滅的損害をもたらします。
だからこそ被害者意識をそのままにしてはいけないのです。
被害者意識を嗜癖として使う理由として子供時代の機能不全家庭で育った養育歴を挙げることをいつかは止める必要があります。
なぜならそれは間違った理解だからです。
私たちが被害者意識を使う真の理由は【嗜癖として使っている】のであり、嗜癖として使う理由は【不快感情から逃れるため】です。
この理解がお腹にストンと落ちない限り、12ステッププログラムは効果を発揮しません。
なぜなら12ステップは依存症からの回復にのみ効果があるプログラムであり、それ以外のものには効果がないからです。
だからどうしても「アルコール依存症者がアルコールを嗜癖として使うように、私は被害者意識を嗜癖として使っているのだ」との気づきを持つことが必要です。
③単なる犠牲者が被害者意識を嗜癖として使うようになる過程
そもそもACは自分が被害者意識を嗜癖として使っているなどとは微塵(みじん)も思っていません。
ただ、自分を犠牲者だと感じることを自覚している方は多いようです。
しかし犠牲者だと感じること自体が被害者意識を嗜癖として使っている証拠なのだと人生のどこかで気づく必要があります。
私たちが嗜癖行動に走る理由は実は「自分の問題を見ないため」です。
恨みなどの不快感情は本能が傷ついたことを知らせるために発生しますが、本能が傷つくのは自分自身の性格上の欠点からくる行動パターンを使ったときだけです。
ということはどこかに自分自身をだます仕掛けがあるのです。
それは恨んだのは実は誰かに傷つけられたからではなく、自分が自分の性格上の欠点を使ったことが原因だったのですが、その原因を直視したくないので、他者に責任転嫁していれば自分の問題を見ないで済むというわけです。
自分の問題を見ないために病的な人間関係を嗜癖として使うことに逃避する生き方は一見楽ちんな生き方に見えますが、その生き方は必ず依存症をもたらし、気づくと「自分の人生がどうにもならなくなった」状態に陥らせます。
被害者意識は(性格上の欠点の)恐れでもありますから、被害者意識をもっていると「傷つけられる前に、こちらから関係を切り捨ててやる」という[恐れが動機の身勝手行動]を引き出しがちです。
そういうわけでACにとっての被害者意識は嗜癖でもあるし、また別の面では被害者意識という[恐れが動機の身勝手行動]の原因になっていると言えます。
あるACは「私は被害者であるのに、まるで自分が問題当事者でもあるかのように取り扱われることに抵抗がある。だから私は12ステップに取り組まない」と言われました。
しかしこのような人々も「私は被害者意識を嗜癖として使う依存症である」との自己理解をもつなら、そのような抵抗感は雲霧(うんむ)のごとく消え去ってしまうでしょう。
これをまとめると三つに集約されます。
一つは子供時代のサバイバル術を大人になってからも使い続けたのは自分の責任であり、親のせいではない。
二つ目は自分自身を傷つけたのは他者ではなく、自分の性格上の欠点からくる行動パターンだった。
三つ目は今では被害者意識を嗜癖として使う依存症者になっており、使わないでおこうと思っても使わないでいる自由がない。
この三つを心から肯定できたとき、ステップ1の「無力を認める」にたどり着くことができます。
2.回復方法
依存症から回復する方法は一つしかありません。
それは霊的目覚めを得ることです。
理由は依存症は治らない病気であるからです。
これは自助グループがそう言っているだけではなく、医学的理解でもあります。
もちろん治らないと言っても、回復して健常者と同じレベルの人生を送ることが可能です。
これを指して「依存症は治らないが回復は可能な病気」と言われます。
アルコホーリクス・アノニマスの共同創設者であるビル・Wは劇的な霊的経験をしました。
それで他のメンバーたちは「自分も劇的な霊的体験をしないと回復しないのだろうか?」と考えるようになりました。
それでビッグブックの改訂版が出されたとき、「大切なことは霊的に目覚めることである」との文言が付け加えられました。
霊的目覚めは何を意味しているのかと言うと、それは回復するのに十分な人格の変化とされます。
では人格の変化とは何かといえば、その最も本質的部分は【犠牲者の視点】から【問題当事者としての視点】への転換です。
一般的(世俗的)なカウンセリングでなく12ステップでなければならない理由
被害者意識を嗜癖として使う問題の解決方法は被害者意識を克服することではありません。
嗜癖として使うのは依存症の特徴ですから、依存症からの回復の道は「嗜癖を使わない」の一択です。
原因(機能不全家庭で育った養育歴)を追求して解決しようとするのではなく、自分が被害者意識を嗜癖として使っている依存症者であると気づき、そしてその嗜癖に対して無力であることを認めます。
これだけが回復の道です。
そもそも被害者意識の前提にあるのは「他者が私を傷つけた」というものですが、「他の誰でもない、この私が性格上の欠点からくる行動パターンを使ったので自分自身が傷ついた」というのが真実でした。
この気づきを得ると「他者は決して私を傷つけることができない。傷つけていたのはいつだってこの私だった」という思いに至ります。
他者は私を傷つけることができないという思いをもつと、【犠牲者の視点】で生きることはなくなります。
(この段階に至っても知らず知らずのうちに被害者意識を嗜癖として使う危険は残ります。それを防止する最も効果的な方法は日々の棚卸しです)
本質的な解決策は不快感情がなければ嗜癖を使う必要がなくなるのだから、そのためには行動パターンを変えて本能の傷つきをなくせばよいということになります。
それを実現するために必須なのが霊的目覚めです。
私たちの経験ではステップ5の人生の棚卸しが終わった時に霊的目覚めが与えられる場合が多いようです。
世俗的なカウンセリングであれば無力を認めた時点で「アウト!」となります。
理由は一般的(世俗的)カウンセリングの前提は「神なしで回復する」だからです。
この前提がある限り、無力を認めることはできない相談です。
無力を認めないと回復しないのだが、認めると自力での回復も不可能ということになってしまうので、そこで苦肉の策として「インナーチャイルド」を神の代わりとして登場させたりします。
しかしインナーチャイルドは神ではないし、その故に私たちを回復させてくれることもありません。
しかし霊的プログラムは無力を認めてからがスタートです。
もちろん神頼みで終わるなら宗教ということになります。
霊的プログラムの特徴は無力を認めることをスタートとし、神だけが私を回復させてくれると信じ、神の力を自身の心と人生に呼び込むために【行動のプログラム(ステップ4〜12)】に取り組むことです。
3.霊的に目覚めたあとの歩みで気をつけること
「私は悪くないのに周りの人々のせいで傷ついた」という犠牲者の視点で生きていることに気づくのはステップの4・5の棚卸しと10の日々の棚卸し、そして11の祈りと黙想を通して以外には不可能です。
自分の中にいるもう一人の自分、すなわち自分自身という存在があります。
この自分自身という存在は恐れにもとづいて行動するときは「お前は本当に臆病なやつだな」と自分を裁くし、逆に人々に敬意をもって接することに全力を尽くしているときは「お前は偉いよ。お前は本当によくやっているよ」と言ってくれる存在でもあります。
自分自身という存在に裁かれるとき、そのジャッジは正当なものですからセルフイメージ(自己評価)は下がり、反対に自分自身に誉められるときは自己評価はバク上がりします。
以上のことから分かることは単にアファメーションをしたぐらいではセルフイメージが上がることは期待できず、そのような営みは徒労に終わるということです。
そのようなわけでアファメーションによってセルフイメージを高めようとする営みは効果がないと、ありのパパは考えています。
本当に効果があるのは新しい行動パターンを全力で実践することです。
そうしたらわざとらしく「私は神に愛されている尊い存在である」などと自分自身に向かって繰り返さなくても、自分自身という存在があなたに向かって「お前はよくやっているよ。お前は偉いよ」と言ってくれる声を聴く日が必ずやってきます。
(結論)
人に傷つけられるのではないかと恐れると行動が止まり、どうしても消極的な人生になってしまいます。
しかしすべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす生き方は自分自身を人生に対する積極的な冒険者の位置に置きます。
さて、あなたはどちらの生き方を選び取られるでしょうか?
◎回復と平安と祝福を祈っています。

