ACは第一段階として(例外なくほとんどすべての)人に依存することを嗜癖として使い、第二段階では(関係を維持するために)行き過ぎた責任感と過剰な世話焼きを嗜癖として使います。
そして第三段階では(行き過ぎた責任感と過剰な世話焼きが原因で関係が破綻すると)今度はその人たちから見捨てられる痛みを感じることを嗜癖として使います。
これではまるで三段重ねの重箱のようですね(笑)。
この記事では第三段階の「見捨てられる痛みを嗜癖として使う」問題と回復の方法を解説しています。
1.痛みを嗜癖として使う原因は性格上の欠点
AC(アダルトチルドレン)は見捨てられる痛みを感じないためならどんなことでもしますが(ACの問題の12)、その一方で見捨てられる痛みを感じることを嗜癖として使うというアンビバレンスな一面を持っています。
しかし一見相反する行動に見えても、実は性格上の欠点から来ているのは同じです。
ACは人間関係への対処の仕方として不正直と身勝手の二つを使います。
- 「見捨てられる痛みを感じることを嗜癖として使う」とは本心とは異なる不正直な対応を続け、その結果として見捨てられますが、その際に「見捨てられる痛み」をしっかりと味わい、「ほら、やっぱり。私は見捨てられたでしょ!」と自己確認することです。
ここでは主に性格上の欠点の『不正直』を使っています。 -
「見捨てられる前に、こっちから見捨ててやる!」とばかりに関係を切り捨てるのは性格上の欠点の『恐れが動機の身勝手』行動です。
「見捨てられる痛みを感じることを嗜癖として使う」ために人間関係において頑固・教条主義的・原理主義的な対応を取り、その結果として人間関係が崩壊し、それらの人々との交流がなくなる。
その結果、心の中で「やっぱり見捨てられた」と痛みを味わう。
これではまるでマッチポンプのようではありませんか!
これらのことはありのパパ自身のことを言っております。
周囲の人々から頑固だとよく言われました。
自分でもその理由がわかりませんでしたが、今になって考えると突っ走るだけ突っ走って、その結果として人間関係が崩壊し、心の中で「ほらやっぱり見捨てられた!」と思いつつ、見捨てられる痛みを味わっていたのかもしれません。
これを嗜癖と呼ばずして何と呼べばいいのでしょうか。
「どうせ見捨てられるんだ」と思っていれば深い人間関係を持とうとしないのは当然のことです。
ACにとって親しい人間関係を持たない・持てない理由は「人が怖い」という人への恐れ以外にもこんなところにも原因があるのかもしれません。
もしそうだとしたら利己的ということになります。
この両者の共通点は一人芝居だということです。
誰も頼んでいないのに勝手に不正直な対応をしたり、身勝手な対応をしたりします。
この一人芝居は自動的に行われるものであり、本人は気づきにくいものです。
これへの対処策は日々の棚卸しを行うことです。
詳しくは項目の3で述べます。
2.嗜癖を使わないための解決策は一つしかない
原因ばかりを探っても、解決策を見いだせない場合もあります。
そんなときは新しい行動パターンを考えることです。
ありのパパの新しい行動パターンは「すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす」です。
なぜならそうしているときだけ、自分の心の中から恐れが締め出されることを知っているからです。
不正直も身勝手も動機は恐れです。
要するに恐れから不正直と身勝手が引き出されるということです。
だから恐れを常に自分の心から締め出しておくことがとても大切なことになります。
なぜなら恐れさえ心になければ、不正直も身勝手も引き出されることはないからです。
ではどうしたら新しい行動パターンだけを使うことが可能になるでしょうか?
それは霊的に目覚めることです。
霊的目覚めとは何かといえば、それは回復するのに十分な人格の変化です。
では人格の変化とは何かといえば、それは視点の転換(パラダイムシフト)です。
視点の転換とは「今の今まで自分は被害者だと思っていたが、そうではなかった。私は問題当事者であり、あるときには加害者でさえあったかもしれない」との気づきです。
これは「あぁ、そうですね」とか「そういう理解が大切ですよね」とかいうことでは全くありません。
そうではなく、この理解が腹落ちすることであり、それ以外の考えが消えてなくなることです。
この霊的目覚めを経験すると、新しい行動パターンを全力で実践するようになります。
こうなると本能の傷つきはなくなり、感情の暴走はやみますから、「見捨てられる痛み」を嗜癖として使う理由がなくなります。
このような訳で嗜癖を使わないための本質的な解決策は霊的目覚め一択と言われているのです。
3.ACが霊的目覚めのあとに注意すべきこと
①日々の棚卸しでカラクリに気づく
「痛みを感じる」ことを嗜癖として使うのは不快感情の中の「恐れ」から目をそらす(逃避行動)ためです。
不快感情の恐れから目をそらすために、痛みを感じることを嗜癖として使うのは典型的な一人芝居です。
人生のどこかでそのカラクリに気づく必要があります。
このカラクリに気づくために最も有効な方法は日々の棚卸しです。
- 「暴走した感情は何か?」
- 「傷ついた本能は何か?」
- 「私が使った性格上の欠点からくる行動パターンは何か?」
この三つを日ごとに確認するなら、鮮やかに自分の問題が見えてくるようになります。
これが12ステップに取り組む人々の共通体験なのです。
気づきを得れば、身勝手な一人芝居は徐々におとなしくなっていきますが、これはすっかりなくなってしまうものではなく、機会さえあれば姿を表そうと虎視眈々(こしたんたん)と狙(ねら)っていることを忘れないようにしたいものです。
②健康な痛みと病的な痛み
「痛みを感じること」は実は二種類あって、一つは正当なもの、もう一つは病的なものです。
正当な痛みとは「痛みを感じること」が避けられないときに敢えて痛みを受け止めることを指します。
これに対して病的な痛みとは(恨み・罪悪感・恐れ・後悔などの)不快感情から逃れるために「見捨てられる痛みを感じる」ことを嗜癖として使っている場合です。
気をつけなければならないのは自分では「これは正当な痛みだ」と思い込んでいても、実は「痛みを感じることを嗜癖として使っている」場合が多いということです。
嗜癖の意味はそればかりを偏って使うことであり、まさにアルコール依存症者がアルコールばかりを使って不快感情から逃れるのと同じです。
不快感情から逃れるために使っているなら、それは嗜癖です。
閑話休題
ストレスには良いストレスと悪いストレスがあります。
良いストレスは質の良い睡眠・適切な運動・完全栄養の食事によって解消することができますが、悪いストレスすなわち不快感情(恨み・罪悪感・恐れ・後悔)は嗜癖によってしか解消しません。
だから多くの人が依存症になるのです。
そういう訳で悪いストレスすなわち不快感情への対応策は「不快感情を溜めない」の一択しかありません。
③ACが使う否認が回復の最大の妨げになる
ACにとっての否認の問題は大きいです。
どういうことかというと「私は全然傷ついてません!」と言いつつ、その実しっかりと(本能が)傷つき、感情が暴走しているのです。
この状態では、暴走した感情の手当をしようとは思いませんから(なぜなら傷ついていることに気づいていないから)不快感情はたまり放題です。
それで不快感情ダムは容易に決壊し、嗜癖行為に走ります。
ACや依存症者からよく聞くのは「うまく行っていたはずなのに、どうしてスリップしたのか皆目見当がつかない」という言葉です。
人生は神の意志と自己意志が協働で営んでいくものです。
協働で営むとは祈りと黙想を通して神と相談しながらやることです。
そうであるのに自己意志を全く抑圧してしまって、神の意志に対して盲従・隷従してしまうと、抑圧された自己意志はいつかは爆発します。
「朝起きたら、スリップすることが自分の中で決まっており、自分ではどうすることもできなかった」と仲間が話すを聴いたことがあります。
これなどは典型的な抑圧された自己意志の爆発と捉えることができます。
正確な言い方をすれば、自己意志の爆発ではなく、不快感情が溢れ出したということになります。
原因は自己意志の抑圧とは性格上の欠点の不正直を使っているのに他ならないからです。
不正直とは「本当はこうしたいのに、神がそう言うから心ならずも従う」という感じですが、真の従順は「こうするのが自分のためだ」と納得ずくで神の意志に従うことです。
あるいは「神に従っていればうまく行くんでしょ!」みたいな感じで自分自身に真実に向き合わないのは自分自身に対しての配慮の欠如に他なりません。
神が願っておられるのは盲従・隷従ではなく、従順です。
従順とは自分の本音を神にぶつけ、神の意志とすり合わせ、その上で神の意志に従うことです。
これは面倒くさいことではありますが、これをしない限りシラフの人生は長続きしません。
④ACがもつ不安への対応策は今日一日に焦点を当てること
人は誰でも漠然とした不安をもっています。
この不安は一般的には「将来不安」と呼ばれたり、12ステッププログラムでは不快感情の「恐れ」と名付けられています。
過去に焦点が合わさると「恨み」が、将来に焦点が合わされると「恐れ」が生み出されます。
ステップ4・5で人生の棚卸しを行い、ステップ10で日々の棚卸しをやっているにもかかわらず、依然として恨みや恐れなどの不快感情が無くならないとしたら、それは焦点の当て方が間違っている可能性があります。
対処法は今日一日だけに焦点を合わせ続けることです。
今日一日に焦点を合わせるとは過去や将来を考える暇がないほどに新しい行動パターンの実践に全力を傾けることです。
思い出さないものはいつかは忘れてしまうように人間の脳はできています。
だから思い出す暇を自分に与えず、今日一日を精一杯生きることです。
⑤問題の核心は性格上の欠点からくる行動パターンにある
「病的な感情(不快感情)を直視しないために嗜癖を使う」と理解できていれば結果はまた変わったものになっていたかもしれません。
しかし私たちは病的な人間関係を嗜癖として使う依存症者(アダルトチルドレン)になるまで闇雲に突っ走っりました。
それは私たちが問題から目をそらすこと(否認)を子供時代から使い続けていたからにほかなりません。
私たちが12ステップに取り組んだ結果、理解したことは問題の核心は嗜癖でもなく、感情の暴走でもなく、本能の傷つきでもなく、性格上の欠点からくる行動パターンにあったということです。
この真実は受け入れがたいものではないでしょうか?
ことに病的な人間関係を嗜癖として使う依存症者であるアダルトチルドレンにとってはなおさらです。
だからこそ丁寧に嗜癖に対する無力から入り、最後の最後に性格上の欠点に行き着くようにプログラムは設計されています。
4.人への恐れがあると健康的な人間関係を持てない理由
人々と人格的関係を持つことができないのは「人が怖い」からです。
人への恐れがあるなら人と親しい関係は持てません。
もちろん依存的な関係・支配的な関係は持てます。
しかしそれは健康的な人間関係ではありません。
自分の問題を見ないために、あるいは自分の問題から目をそらすために、嗜癖を使ったり、人の言いなりになったり(隷従・盲従)したのではないでしょうか?
自分の問題とは「性格上の欠点からくる行動パターンを使うことによって自分自身の本能が傷つき、感情が暴走する」という一連の流れを指します。
「私はなぜ人と親密な関係が持てないのだろうか?」とお思いの方がおられるとしたら、それにははっきりとした原因があります。
それは人への恐れがあると人との親密な関係を決して持つことができないということです。
理由は人への恐れがあると心の中では「この関係が破綻したらいつでも逃げ出せるように準備しておかなきゃ」となります。
もちろん恐れと「逃げ出せる準備」が繋がっていなければなんの問題もないばかりか、これはかえって健康的な有り様です。
関係がまだ破綻していないのにすでに逃げ出す準備をしているなら親密な人間関係の持ちようがないということです。
健康的な人間関係を持とうとするなら、人への恐れを解決する必要があります。
対応策は「敬意をもって接することに全力を尽くす」です。
なぜならそうするときだけ、私たちの心の中から恐れが締め出されるからです。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。そういうわけで恐れる者の愛は未だ全きものとなっていません」(新約聖書ヨハネの手紙第一4:18)
閑話休題
何事も程度が肝心です。行き過ぎるとトラブルが生じます。
近くなりすぎると「親しき仲にも礼儀あり」原則を守ることができなくなりがちです。
共依存症でなくてもこのトラブルはどなたにも起きる可能性があるものです。
これを一言で表すと「境界線」ということになります。
相手に境界線を超えてこちらに越させてはならないし、自分もまた相手の境界線を越えてはなりません。
5.信仰さえも嗜癖として使う場合がある!
不快感情から逃れるために使っているなら、それはみな嗜癖です。
信仰さえも嗜癖から逃れるために使っているなら嗜癖です。
では聖書的な信仰とは何かといえば、それは行動パターンを変える(隣人を愛する)ことから始まり、本能を守り(自分自身を愛する)、感情を暴走させないために神を信じる信仰を活用することです。
明確なリトマス試験紙となるのは神信仰を行動パターンを変えるために活用しているかどうかです。
この場合は聖書的な信仰ということになります。
もし行動パターンを変えようとはせずに本能の抑圧や感情の否認に信仰を使っているなら明らかに信仰依存症と言わなければなりません。
本能の抑圧とは「私には本能はございません。たとえあったとしても完全に制御できております」みたいな感じであり、感情の否認とは怒りの感情がふつふつと激(たぎ)っているのに「どうぞ神様、私の感情をコントロールしてください」と祈っているみたいな感じです。
ACの問題に根本的な治癒はありません。
あるのは問題行動を使わないでいる自由だけです。
私はこれで十分満足です。
かつて「嗜癖を使わないために祈る」という人がおられました。
しかしその方に申し上げたいのは「同じ祈るなら、行動パターンを変えられるように祈る」ということです。
そうすれば神は必ずその祈りにお応(こた)えになられます。
◎回復と平安と祝福を祈っています。

