自分の意見を述べなければならないときに黙り込んでしまうのがACです。
この記事は「黙り込む」のは嗜癖として使っているからであるのを明らかにし、そこから回復する方法を解説しています。
1.ACが大切な場面で黙り込んでしまう真の理由
ACは「自分の意見を述べようとすると恐れや罪悪感を感じる」と言われてもピンときません。
どうしてかというと、そもそもACは他者の意向を考慮せずに自分の意見を述べたという経験がないからです。
ある程度回復してやっと自分の意見を他者の意向を考慮せずに述べる場面に遭遇したときに初めて「他者の意向を考慮せずに自分の意見を述べようとすると恐れや罪悪感を感じる」ことに気づけるのです。
自分の意見が言えないと現実の世界では「へなちょこサンドバック」状態になりがちです。
そのため(意見を言わなかった自分に原因があるということは棚に上げて)相手を恨むという悪循環になります。
ACが「黙り込む」のは要するにアルコール依存症者がアルコールを嗜癖として使うように、ACは「黙り込む」のを嗜癖として使っているのです。
そして「黙り込む」戦略は子供時代にはある程度有効だったのですが、大人になって使い続ける必要がなくなったにもかかわらず、無自覚のうちに使い続けた結果として「黙り込み依存症」になってしまいました。
この見立てが正しいとしたらACの回復も12ステッププログラムが有効です。
なぜなら12ステップは依存症からの回復プログラムだからです。
恐れがあると自分の意見を話すときに相手のニーズを考慮し、それ以外は話せなくなります。
例えば12ステップメッセージを伝えようとするとき、恐れがあるとメッセージを直截的に語ることができなくなってしまい、何を言っているのかよく分からない話になってしまいます。
恐れや罪悪感のために心のうちで黙ってしまっている状態では決して自分の意見を述べることはできることではありません。
反対に恐れや罪悪感がない場合には明瞭にシンプルに話すことができますから、何を言っているかよく分かる話になります。
(寄り道)
この嗜癖を使う人に特徴的に見られることは「いくらでも我慢できる」と錯覚していることです。
誰かが「我慢にも限界がある」などと言っているのを聞くと「ホントかな?」などと感じてしまうのです。
これは誰あろう、ありのパパのことを言っています。
2.恐れが動機にある配慮の充実は共依存でしかない
「恐れや罪悪感を感じ」の【罪悪感】は不快感情にほかなりません。
ではどの本能が傷ついたので感情が暴走したのでしょうか?
多分、共存本能の対人関係でしょう。
自尊心が傷つくと「よくも傷つけてくれたな」ということで恨みの感情が暴走しますが、同じ共存本能でも他者との関係に関わる本能である「対人関係」が傷ついた場合には「また人間関係において失敗してしまった」ということで罪悪感や後悔の感情が暴走しがちだからです。
黙ってしまうことを嗜癖として使うと自分の意見を言うことができなくなってしまいますから、人間関係に齟齬(そご)を生じやすくなります。
というかこの地上では生きるのが困難になってしまいます。
多くのACが「私は生きづらい」と言われますが、その原因の一つには「黙ってしまうことを嗜癖として使う」ために自分の意見が言えなくなってしまうというのがあるのではないでしょうか?
自分の意見が言えなければ、自分の本心を相手に伝えることはできませんから、どうしても「私は何も言わないけど、私の本心を分かってよね」と考えるようになります。
これほど利己的極まりない生き方はないと言わなければなりません。
この地上に生きている人で誰一人としてあなたの本心を(あなたが言わないのに)分かってくれる人はいないのです。
それで生きづらくなるのだとしたら、これはもう自業自得(じごうじとく)としか言いようがありません。
新約聖書の中でパウロは「あなたがたのために良いと思ったことは、なんであれ躊躇なくあなたがたに話した」と書きました。
しかし恐れや罪悪感があると相手が受け入れられそうなことしか言うことができません。
これが使徒パウロと私たちの違いかもしれません。
私たちもパウロと同じように「良いと思ったことを躊躇なく人々に話す」ためには自分の心の中から罪悪感や恐れを締め出すことが必要です。
これとは逆に病的なコントロール欲求のために相手のやること なすことに口を挟む場合がありますから、単純に「言いたいことを言えばいい」というわけではないことに注意が必要です。
3.回復の道
罪悪感や恐れを締め出す唯一の方法は「すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす」ことです。
そうしている間だけ、私たちの心中の恐れを締め出すことができます。
理由は一つのことを全力を考えたり行動したりしているとき、それ以外の考えを締め出してしまうという特質が人間の心にはあるからです。
だからすべての人に敬意をもって接しているときは、心の中に「人が怖い」という人への恐れが留まることができません。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。そういうわけで恐れる者の愛は全きものとなっていません」(聖書)
ではどうしたらこれを実践できるでしょうか?
「はい、やってみます」との答えが返ってくる場合、いくつかのケースが考えられます。
- まだやってないので、自力で実践不可能だと分かっていない
- そもそも本気でやろうと思っていない。「できればいいなぁ〜」みたいな感じ
後者の場合は「できないね。やっぱり」みたいな感じで終わってしまいがちです。
前者の場合はやってみた結果、「これは自力では不可能だ。ここでも無力を認める必要がある。しかし神にはどんなことでもできる!」と12ステップの原理を適用します。
そしてこの行程が一生続きます。
この行程を全力で続けていると、しばらくすると自分の中から本能の傷つきがなくなり、感情の暴走が止まったのを気づく日がやってきます。
そして他者の意向を考慮せずに自分の意見を述べても恐れや罪悪感を感じないので「黙ってしまう」嗜癖を使わない自分を発見するときが訪れます。
◎回復と平安と祝福を祈っています。

