自分が救ってあげれそうな人を選ぶのを嗜癖として使う問題の回復方法

子供のしつけ

皆さんは「自分は救ってあげれそうな人を選んでる」と感じたことはありませんか?
この記事はACの問題9の「救ってあげれそうな人を故意に選ぶことを嗜癖として使う」問題の解決法を解説しています。

1.「救ってあげれそうな人を故意に選ぶ」ことの実態

ACの問題行動 の9番目である「救ってあげれそうな人を故意に選ぶことを嗜癖として使う生き方」を読んだとき、「この生き方こそ、ありのパパ自身の生き方だった」と認めざるを得ませんでした。

宗教者として「救われそうな人」を求めていたのは否定できません。
いわゆる「筋(すじ)がいい」とか「期待がもてる」という言葉は一般にも使われる言葉ですが、宗教に携わる者にとってはそれは死活問題なので、そればかりに気を取られていたら気づいたら嗜癖として使う状態に陥っていたということだと思います。

ありのパパの場合はここから更に進んで、故意に選んだ人の離反によって「見捨てられる痛みを味わうことを嗜癖として使う」(ACの問題行動の4番目)ことをしていました。
「やっぱり見捨てられた」という感情をとことん味わっていたように思います。

この感情は「痛(いた)気持ちいい」というか、変な納得感がありました。
しかし変な納得感ではあっても、自分にとっては馴れ親しんだ感情でしたので、心ゆくまで味わっていたという感じです。

この嗜癖を使う人の人間関係の特徴

「救ってあげれそうな人を故意に選ぶ」ことの特徴は救われそうな人には懇切・丁寧に接するが、そうでない人にはけんもほろろな対応をすることです。
これは人によって態度を変えるということであり、当然のことながら人間として失格と言わねばなりません。

救ってあげれそうな人を故意に選ぶことの致命的な欠陥はそもそも人間には誰が回復して誰が回復しないかなど分かりようがないにもかかわらず、自分を神の位置に置いて人を裁いているということです。
人を裁く者はいつかは自分が裁かれるようになります。

ACは救ってあげれそうな人を故意に選ぶことを嗜癖として使う一方で、人が怖いので自分の意見や立場をはっきりと打ち出すことができません。
人を恐れるのは不快感情が発生する原因(性格上の欠点)であり、人を故意に選ぶのは不快感情から逃れるための嗜癖行為です。

性格上の欠点としての恐れとは考え方・感じ方・行動の仕方の三つから構成される人格の一部です。

考え方としての恐れとは「人は必ずいつかは自分を裏切ったり、見捨てたりする」という間違った思い込みです。

感じ方としての恐れとは例えば人が自分をチラチラ見ながらひそひそ話をしていると「私の悪口・陰口を行っているのに違いない」と思い込むことです。

行動の仕方とは「相手が私を見捨てる前にこっちから見捨ててやる」みたいな恐れが動機となった身勝手行動を指します。
あるいは見捨てられては困るので自分の本心とは異なる行動をする不正直行動もあります。

救ってあげれそうな人を故意に選ぶ人は罠(わな)にハマります。
故意に選ばない人は他者から見るとそっけなく見えます。
ありのパパの若いときのことですが、熱心な伝道者の中にも二種類の人々がいました。
一方はありのパパから見るとそっけなく見える人々です。
この人々は今から思うと救ってあげれそうな人を故意に選んでいなかったように思います。

もう一方の人々は文字通り「救われそうな人」を故意に選んでいました。
しかしその結果は失望に終わることが多かったようです。

閑話休題

18世紀の英国メソジスト教会は奴隷制度に明確に反対し、奴隷制度廃止の国会請願運動において大きな役割を果たしました。
指導者だったジョン・ウェスレーは「礼拝の説教で明確に奴隷制度に反対すればある程度の会員が教会を去るだろう。しかし神はそれ以上の多くの人々を教会に送ってくださる」と述べました。

これに対して米国メソジスト教会は奴隷制度に対して沈黙しました。
理由は教会員の中の奴隷をもつメンバーに配慮したからと言われています。

同じ教派であるにもかかわらず、全く正反対の対応をした結果は大きなものでした。
英国は平和的に奴隷制度を廃止しましたが、アメリカは奴隷制度を廃止するのに南北戦争という内戦を経験しなければなりませんでした。
聖書に「正しいと分かっていて、それをしないのは罪です」とあります。
米国メソジスト教会が奴隷制度に明確に反対していたらと思わずにはいれません。

なぜこの話を書いたかと言いますと、米国メソジスト教会の奴隷制度に対する沈黙の原因は人を故意に選ぶことを嗜癖として使うことにあったのではないかと考えるからです。
当時の米国メソジスト教会の指導者であったフランシス・アズベリーも自分自身がなぜ沈黙するのかの真の原因を理解できなかったのではないでしょうか?

2.人を故意に選ぶことを嗜癖として使う問題の回復方法

「動機が問題」とはよく言われることです。
確かにその通りですが、嗜癖として使っている者はそれに気づくことができません。

例えばアルコール依存症者は不快感情から逃れるために嗜癖として酒を使うのですが、本人は「悲しいことがあったから」とか「いやなことがあったから」とか、はては「今日は楽しいことがあったから飲む」と考えています。

それで嗜癖として使っていることに気づかず延々と嗜癖行為を繰り返す愚を犯します。
不快感情から逃れるために嗜癖を使っていると気づけるのは無力を認めて12ステップに取り組んでからのことになるのがほとんどです。

①解決に至る順番は無力を認める⇒神を信じる⇒霊的に目覚めるために行動のプログラムに取り組む

嗜癖行為を止める二つの方策があります。
一つはきっぱりと無力を認めることです。
嗜癖行為を続けると脳の報酬系に依存症回路ができてしまい、一旦できてしまうと死ぬまで依存症回路がなくなることはないとされています。
それで無力な自分以外の、自分を越えた大きな力が自分を回復させてくれると信じます。
このようにステップ1と2はセットになっています。

二つ目は神の回復させる力が私たちの心に流れ込む障害になる不快感情(恨み・罪悪感・恐れ・後悔)を取り除くことです。

感情の役割は本能が傷ついたことを私たちに知らせることです。
この役割はいわば鉱山のカナリアのようなものです。
そういうわけで感情も感情の暴走も本来は悪いことではありません。
なぜなら感情が暴走しなければ私たちは自分の本能が傷ついたことを知りようがないからです。

②ACの否認と抑圧が回復の邪魔をする

アダルトチルドレンは暴走した感情を放置しがちです。
これを【感情の否認】と言い、本能が傷ついたにもかかわらず「私の本能は傷ついていない」と言い張ることを【本能の抑圧】と言います。

ACが棚卸しをすると「自分はどの感情が暴走したのか分からないし、どの本能が傷ついたかも分からない」と言うことがあります。
ありのパパ自身もそうでした。
理由はそれぐらい否認と抑圧が強いということです。

否認と抑圧を解除する方法はあくまでも日々の棚卸しをやり続ける以外にありません。
そうすると徐々に否認と抑圧が弱まってきます。
そうなるまで日々の棚卸しをやり続けるのが肝心なのですが、あまりにも否認と抑圧が強いと「棚卸しがうまくいかない」と感じ、止めてしまう人が多いのは残念なことです。

本能が傷つくのはいつだって私たちが自分の性格上の欠点から来る行動パターンを使ったときだけです。
これが分かると「他者は私を傷つけることができない」という偉大な事実を知るようになります。
自分以外の誰をも私を傷つけることができないと知れば「幸せは自分持ち」であると心の底から納得できます。

③生育歴の癒やしに取り組む人々

多くのACが陥る誤りは生育歴を癒やすことによって、この恐れを何とかしようとすることです。
いったん性格上の欠点になってしまえば生育歴を癒そうとしても恐れは決してなくなりません。
なくなったように見えても、それは文字通り見えているだけであり、何かあれば必ず戻ってきて私たちの行動を再び支配している現実に気づくはずです。
理由は生育歴の癒やしなど実は存在しないからです。

癒そうとするのは、自分の生育歴を悪いものと捉えているからです。
しかしあなたが苦しんだ子供時代の出来事は全部あなたの宝物であり、あなたの誇るべき財産です。
問題の核心は宝物であり、善いものであるご自身の生育歴を病んだものと捉えている、あなたの認識そのものにあります。

これを癒やしてしまって他の人と同じになってしまったら、あなたは自分の宝物を打ち捨てたことになります。
生育歴の癒やしに取り組もうとする人々の勘違いはここにあります。

性格上の欠点としての恐れとは別に、不快感情としての恐れがありますが、アファメーションなどによって癒そうとしても効果がない場合がほとんどです。

なぜなら何万回「私は恐れない」と繰り返したとしても、不快感情としての恐れや性格上の欠点としての恐れが確かに自分の中にあるにもかかわらず、それに蓋をして見て見ぬふりをしても「あるものはある」のであり、決して「ない・ない・ない」と唱えても現実は1mmも変わるものではありません。

④霊的目覚めなしの新しい行動パターンの実践は絵空事(えそらごと)

「すべての人に敬意をもって接する生き方」をしても心の中に「人が怖いという人への恐れ」をそのままにしているなら、新しい生き方は結局のところ人への奴隷的な生き方に堕してしまいます。
そうならないためには「私は人への恐れを自分の中から締め出すためにすべての人に敬意をもって接している」との自覚をもって新しい行動パターンを使うことです。

お芝居、あるいはやっている振りの場合は恐れを締め出すことができません。
私たちACはお芝居が天才的に得意ですから、この点は特に注意が必要です。
このことを考えるとき、やはり霊的目覚めの経験なしには新しい行動パターンの実践は不可能だろうと思います。
そもそも霊的目覚めの経験なしに新しい行動パターンを実践しようとすること自体が自分の無力を認めていないのを証明しているようなものです。

3.実践における注意点

すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くすのですが、それはすべての人に同じように接することを意味していません。
無条件ではあっても、決してそれは無制限を意味しないことを私たちはわきまえておく必要があります。

①目標達成を目的にする人生のあやうさ

目標を達成することを人生の喜びとする人は「喜び依存症」とでも呼ぶべきものになりがちです。
そうならないためには目標を達成することをモチベーションにするのではなく、人生の内なる旅を生きることをモチベーションにします。

「人生の内なる旅を生きる」とは何を意味するかと言うと、日常生活のいとも小さきことにコツコツと取り組んで生きていく生き方です。
そこから生まれる喜びは私たちを依存症にすることはありません。

目標というものはどうしても一面的になりがちです。
物事には複層的な面があり、一つの事柄を達成できても他の事柄が未達成であれば「達成できた」とは言えない場合が多いのです。

しかし子供時代から何とか家族が破綻しないようにと非力ながら努力してきた者にとっては「うまく行っている」(あるいは「そのように見せる」)ことだけが大切なことになります。

それで大人になってからも目標を達成することによって自分自身や周りの人々(あるときには社会)に対して「うまく行っている」と思わせることのみに重点が置かれがちになります。

これが事業がうまく行っているにもかかわらず、経営責任者が表舞台から突然消えてしまう理由の一つだと思われます。
(舞台から退場する理由にはうつ病やアルコール依存症などがあるようです)

ではアダルトチルドレンにとって人生の内なる旅をコツコツと生きるとは一体どんな生き方でしょうか?
ありのパパが考えるのは以下のようなものです。
霊的に目覚めた後、シラフの陣地(ACが使う嗜癖は少なくとも13個ある) を拡大しつつ、毎日毎日を「今日一日だけ」と自分を諭しつつ、小さな喜びを積み重ねていく生き方です。

②聖書が教える『罪』は何を指しているのか?

聖書が言う「罪を犯す」とは性格上の欠点から来る行動パターンを使うことによって本能が傷つき、感情が暴走し、不快感情から逃れるために嗜癖を使う一連の構造を指して言われています。

メッセージ活動の結果として人々の回復がはかばかしくないと失望するかもしれませんが、心のどこかで「そんなもんだ」と思うでしょう。

しかし救ってあげれそうな人を故意に選ぶことを嗜癖として使っている場合は人々が回復しないとその人々を恨みに思ったり、「こんなに一生懸命やっているのに誰も回復しないなんて」と自己憐憫に陥ったりします。
全くの一人芝居ですね(笑)。

おまけ

[ACの問題行動]の文言に特徴的なのは、文言の前半は治らないものを記していたり、症状の原因になったものを記しているのですが、後半の文言は使っている嗜癖を明確に記しているということです。

文言の前半部分は変えられないものですが、後半部分は使わないで生きることが可能です。
これこそが回復ということです。

この違いをわきまえて「ACの問題」を読むと有益でしょう。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

ARA(アダルトチルドレン・リカバリー・アノニマス)Teamsミーティングのお誘い
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